何故こんなことになっているのか、どんなに記憶を手繰り寄せてみても、答えは見つからなかった。
 ただ、痛かった。
 初めてこの宿命を、本気で憎いと思った。
 獣のそれが威嚇するのと同じく、シアは姿勢を低く唸り声を発して構えていた。

 シアは失われた…――
 だが開かれた瞳は赤銅色で。赤い瞳孔ではなくて。
 魔獣のように咆哮しようとも、姿形を変えようとも、それは【シア】だった。他の誰もが認めなくとも、リーテだけは間違えない。

 城内の広大な中庭。対峙するのは二つの影。ぐるりとそれを取り囲む、武装した騎士。続々と集結しては向かうべき敵の姿を認め、後退りする者も少なくなかった。触れればはちきれそうになる緊迫した空気を前に逃げる者はいなかったが、何かのきっかけがあればいとも簡単にこの輪は崩れるだろう。
 一様にシアが纏うまがまがしいモノに気圧されていた。ゲリューオンに喰い殺されたナラダの騎士達と同じ。魔獣を前に慄いている。
 リーテの正面にいるのはシアではなく、見聞きしたことのない魔獣でしかないのだ。
 違うのに…!あれは、あれは…!
 この場にいる全員が黒い影を敵とみなしていた。一人として瞳の色に気づき、シアであると叫ぶ者はいない。気づく者はいない。…リーテを除いては。
 シアを傷付ける訳にはいかない。何としてもこれをはめなければ!
 その為には騎士達を場に縫い付けておくことが不可欠だ。攻撃させてはいけない。
 剣を水平に肩の高さまで持ち上げた。陽の光に閃光を放つ。
 じり、と一斉に輪が一歩後退した。こんな指示をしなくても、向かってくる者はいないかもしれないな、と内心で苦笑する。リーテでさえ、躊躇うほどなのだ。
 それは一概に相手がシアだからというだけではない。ゲリューオンより遥かに恐ろしく巨大な不祥の空気がシアから感じられた。平静な顔を見せていても全身は総毛立っていた。
 ゆっくりと、ごくゆっくりと歩みを進めると、ますます魔獣の殺気は強くなる。
 こんな風に敵対する日がくるなんて、考えもしなかった。これは罰なの?それとも試練?
 集中しなくてはと叱咤する自分の中で、悲嘆にくれるもう一人の自分がリーテを弱らせる。
 次々と人の死を見、レフローの裏切りを知り、真っ先に縋り付きたい相手は、自分を殺そうと窺っている。いっそ、母の後を追おうかと頭をもたげた。
 傷付けられないのであれば剣は不要だった。けれど手放すわけにはいかない。大きさこそ違えど、目の前にいるのはゲリューオンなのだ。殺気を直線的にぶつけてくる、魔獣なのだ。
 首尾よくバングルを腕にはめられたとしても、元に戻る保証はない。このままシアは、産まれてからずっと一番近くにいた兄は、手の届かない遠くへいってしまうのかもしれない。否、それはなんとしても阻止しなければいけない。一人でいかせたくない。たとえ相討ちになったとしても。
 恐くはない。あれは本来のシアではないのだから。
 腕を下げれば自然と切っ先は地面に向いた。意志喪失ではない。しっかりとした足取りで、強い視線を据えていても、混乱のままに逡巡していたのだ。
 シアの本質が窺測ならない以上、こちらも本気で向かわなければいけない。だがもしも、片鱗だけでも残されているのなら…他の手段をとらなければ。
 一人で闘うのは初めてだった。
 護られることも、護ることもない。半身の動きに感応して動くことも、次にとるべき行動を目顔で相談することもない。信頼できる同志はこの生命を、自分を狙っているのだ。
 ――孤独だった。
 もうずっと、幼い頃より封じ込めてきた彼女の弱い部分が全面に出てきそうになる。総てを放棄して、卑怯な逃げ道へ進路をとりそうになる。揺れ動く心の水面を必死に鎮めようとした。
 それを隙だと判断したのか、魔獣は地を蹴った。瘴霧を撒き散らしながら、ただ一人に狙いを定めて。長い滞空時間に思えた。
 ぎりぎりまで引き寄せてから横に躯をずらしてかわす。着地と同時に再びリーテ目掛けて跳んだ。また際どいところまで引き付け、かわした。三度目も、同じ。
 さすがに何度でも単純な攻撃を繰り返すほど愚かではない。魔獣はリーテと距離をとり、様子を窺がい始めた。
 睨みつけながら少女は考えていた。迂闊に近付けない。だがどうしても見極めたかった。そのためには近付かなければいけなかった。
 【あれ】の中にシアはいるのか。
 物理的な距離では判断がつかなかった。かといって、あんなにも手に取るように通じ合っていた精神は今では一方通行だった。何も、聞こえない。
 どうすれば…。

 ――心のままに。

 不意に、母の言葉が流れ込んできた。さざめいていた心の水面が凪いだ。そっと目蓋を下ろす。見えるのは暗闇ではない。足元より緩やかな曲線を描いた光源を放つ線。――光の道。
 ゆっくりと目蓋を開ける。
 数瞬、絡み合った互いの目線。判ってしまった。リーテには伝わってしまった。
 ゆるゆると首を振る。足を切断しろと要求した時と同じ。今度は片足だけじゃなく、その生命を切り落とせと言っている。

 僕の躯は、もう駄目だ。
 だから不幸を呼ぶ前に、誰かを、大切な者を、傷つけてしまう前に。君を殺してしまう前に。
 ――この鼓動を止めてくれ。

 知らずの内に瘴霧を避けていた。躯が自然に動く。危険を察知し、避け、攻撃を繰り出す。染み付いた習慣。
 だが、それでは駄目なのだ。目の前にいるのは、常とは違う存在なのだから。倒すべき相手ではないのだから。
 ならばどうするべきなのか。
 今までと同じ。これからも、同じ。…受け止めればいい。

 ――僕達は二人で一つだ。ずっと一緒だよ。…鮮やかに蘇るシアの言葉。
 一つに、なろう。
 二人で一人。二人なら何も怖いものなんてない。

 『無』へ、還ろう…――

 穏やかな笑みだった。
 総てを許し、総てに許され、総てを包み込み、総てに包み込まれていた。

 魔獣の躯が大きく痙攣した。内側から爆発しようとする力を外側が押さえ込もうとしている。シアが最後の欠片を集結させて、対立している。
 シアの能力をも習得したのか、漆黒の体躯から分離した瘴霧が【遠当て】に乗って四方八方に飛び散った。間近にいたリーテは一撃目を剣で弾いたものの、第二撃に肩をやられた。逃げる間もなく瘴霧に当たった騎士達は次々と生命を落としていく。
 そしてまるで、それらの生命を吸い取って自らの生命を強堅なものにしているのか、内からの抵抗が徐々に弱まっていった。
 シアが消えていく――
 護りたいものは沢山あった。挙げればきりがないほどに。どれも大切で、愛おしくて。
 でもそれは、シアがいたから。リーテがいたから。互いに手を取り合って、呼吸を感じられる距離にいたから。だから宿命に立ち向かうことも厭わなかった。
「護り抜こう。…ね、シア」
 両手を大きく広げ、天を仰いだ。ドーム型の【保護壁】が突如現れた。その中にリーテと魔獣を囲い込んで。
 暴れ狂う瘴霧は壁によって撥ね返り、無数の雨となって二つの影に降り注ぐ。その攻撃を受けるのはリーテだけ。皮膚が破れ、焼け焦げ、蝕まれても、リーテは穏やかだった。
 苦しげに呻く魔獣がまずは倒すべき敵を決めた。牙と爪と剣と、目にも留まらぬ素早さで交差し、どちらも譲らなかった。内から闘いを挑むシアを抱えた魔獣が若干押されているくらいで。
 一瞬、隙が見えた。先に本能が反応し、手に鈍い感触が走った。何度も何度もその手に感じてきた感触。――モノを斬る、感覚。
 ぎゃん、という悲鳴をあげて地面に落ちた魔獣は手足をバタつかせた。躊躇い無く剣を振りかざす。左太腿を貫き、地面に縫い付ける。
 瘴霧にやられ、全身から血を流し続けていたリーテの唇は最早色を失っていた。崩れるように魔獣の傍らに跪いた。下半身の動きを封じ込められて尚、魔獣は牙を向けてきた。避けるのではなく、片方の腕を犠牲にして牙を突き立てさせた。骨がみしりと音を立てる。
 腕を喰い千切ろうとする力と、止めようとする力が魔獣の中で錯綜していた。
 数秒、時が止まったように、魔獣の前足がその動きを止めた。好機は訪れた。母の心願が込められたバングルが、再びはめられた。
 咆哮と共に牙が離れ、前足がリーテを蹴り飛ばした。【保護壁】に衝突し、ずるずると地に落ちた。動けない。かろうじて目蓋だけを開き、動向を諦視する。
 だが状況は好転しなかった。かっちりとはまったバングルは、沈黙を貫く。
 剣が刺さったまま躯を起こすも、根深く地面に衝き立てられた刃は抜けず、足を切り裂いた。魔獣は承知の上で行動を起こしており、小さく呻きながらも立ち上がる。
 猛然と向かってくる漆黒に両手を広げた。

 二つが重なり合った瞬間を、幾多の瞳が見ていた。自分達を護る為に作られた【保護壁】の中を傍観して。
 漆黒と赤銅が混ざり合い、眩い光を放った。目が眩む。それが収まり再び中央を見た。そこに浮かぶ、光に包まれた人影を見た。


「ごめん…」
「いいよ。こうしてまた顔を合わすことが出来たんだから」
 俯き気味に謝る兄の頬に手をあて、視線を上げさせた。白いあたたかい不確かなものに包まれて、足は地を離れて浮いていた。天に向かって浮上していく。
 元の姿に戻ったシアの顔がこんなにも近くにある。
「傷、なくなったね」
「うん。痛みもない」
 申し合わせたように持ち上げた双子の手首にはバングルは無かった。
 全身に穿たれた紋様が、音も無く皮膚から浮かび、剥がれた。微細な破片となって拡散した。
「護れたんだよね?」
「遣り遂げた?」
「うん。たぶん…」
「自信ないね」
 安堵の笑声が漏れた。見渡しても黒い影は見当たらない。二人の躯に紋様も残されていない。呪縛は、消えた。
 使命は終わったのだ。
「怖い?」
「ううん。一緒なら怖くないよ」
「そうだね。僕も同感だ」
 堅く堅く、手を握り合った。もう二度と離れないようにと。


 一つに還ろう。『無』へ還ろう。


[短編掲載中]