真っ先に視界に入ったものは、手の甲だった。目一杯伸ばした腕の先にある、開かれた指だった。それが自分の腕だと判るのに、時間は必要なかった。
 引っくり返してまじまじと掌を見つめた。…この手は何を掴もうとしていたのか。


 何分も止めていたような息苦しさに、急速に取り込まれた大量の空気に、巧く呼吸が紡げなかった。やがて正常の呼気に戻り、ぎこちなく首を巡らせる。
 莉哉は仄明るい土の上に寝転がっていた。周りにはゴツゴツした岩石が転がっている。洞窟の中のポッカリとあいた空洞部分に放り出されていて、傍らには水がたゆたっていた。薄ら寒い気温に身震いするも、左側が動かない。
 胸と腕の上に重量感があって、その所為で動かない。上半身を起こすのは無理だったので頭だけ持ち上げてみる。
 長い髪がさらりと零れた。甘い香りが鼻をくすぐる。莉哉が動いた振動で、髪の間から寝顔が覗いた。静かな寝息が莉哉の顎にかかる。
「…ん」
 少し身じろきして、ゆっくりと目蓋が開けられる。鮮やかな赤銅色が蘇った。
 何故か、ほっとしていた。あんな夢を見た所為だろうか。――あれは夢?史実?
 思わずミウカの腕を見た。紋様は見当たらないがバングルが目に入った。共通するのは『それ』と宿命の色。
 街でバングルのことに触れた時の店主やミウカの不審な言動を思い出す。シアには【呪い】の証として全身に紋様が穿たれていた。だが、ミウカにはない。
 偶然、だよな?
 半ば祈るような焦りを感じた。過去の悲しい歴史の一部を垣間見ただけで、彼女とは何の関係もないのだと。
 じっと、間近にあるミウカの顔を見つめる。これまでの彼であれば近距離に慣れず慌てて離れていたものだが、この時ばかりは平静でいられた。相手の意識がまだぼやけていて焦点が合っていないからなのだが。
 これが本来の寝起きの姿なのかもしれない。そう思うといっそ可愛いと思えた。
「…リ、イヤ?」
「うん?」
 見つめ返してきた少女の瞳が状況を把握して大きく見開きガバッと躯を起こした。
「ああああれっ??」
 耳まで真っ赤にしながら混乱している。対称的に落ち着いている莉哉は静かに上半身を起こし、懸命に笑いを堪えた。
 やがて落ち着いてきたミウカも声を殺して笑う莉哉に気づき、軽く不機嫌な顔になる。
「…なんだよ」
 あっという間に通常の言葉遣いだ。
「いや?なんでもない」
 もう少しだけ歳相応の彼女を見ていたかったが、そうも言ってられない。表情を仕舞い込んで真面目な顔つきになる。ミウカもつと真摯な目付きになり、仰ぎ見た。
 仄明るさの出所は不明だが、上からでないことは確かだった。どれくらい落ちたのか距離も測れぬほどに高い。先は闇色で何も見えなかった。光の破片も見当たらないとなると、相当なものなのだろう。
「怪我はないのか?」
「うあ?」
 ミウカにならって上を見ていた莉哉は間抜けな声を出してしまった。
「その調子だと大丈夫だな」
 今度は莉哉が笑われる。じゃあ行こうか、と言って立ち上がった。慌てて続こうとして、ストンと力が抜けた。足に全く力が入らない。
「あれ?」
 自分に驚いて尻餅をつきつつポカンとする。
「毒か」
 パタパタと服を探るも目当てが見当たらないらしく、ミウカは顔をしかめた。
「傷口を見せてくれ」
「え、ああ…」
 腕を持ち上げると痛みが走った。ミウカは支えるようにして持ち傷口を観察する。血は止まっているものの、黄緑の液体が滲み出ていた。
「気持ち悪ぃ。なんだ、これ」
「やられてからそんなに経ってないな」
 いたって真剣なミウカに水を差すようなことは言いたくなかったので黙っていたが、あの夢の膨大さからいったらだいぶ経っているように思えた。
 あれは俺だけが見たのか?
 ミウカは見ていない、その事実にも何だか安堵した。関連性を気づかされるのに、それを全否定したいともがいている。…認めたくなかったのだ。
 認めてしまえば彼女もまた、同じ運命を辿るのではないかと、不安だった。
「動くなよ」
「え?」
 なに、とミウカの方を見た。一気に体温が上昇する。…熱いのは傷口に触れている唇の所為。
 振りほどけるわけもなく、硬直したまま少女を見つめるしかなかった。気色悪い液体を吸い込み、顔を背けて吐き出す。数回繰り返し、完全に取り除いた後には血が滲むだけだった。
 服の裾を破って包帯代わりに巻き付ける。
「薬草捜してくる」
「え、あ、俺も行くよ」
「動かないで待ってろ。どっちにしろ動けないだろ。こんな所に草が生えてるとは思えないけど、他になにかあるかもしれないし」
 少し離れた所に落ちていた莉哉の剣を傍らに置いた。
「すぐ戻る」
 動けないことが悔しかったし情けなかった。結局自分は、足を引っ張るだけの存在なのか。
 歩き出そうとした背中がピタリと止まり振り返る。その表情は城下街で子供達に見せていた柔らかい笑みだった。
「そう不安そうな顔をするな。なにかあったら呼べ」
 言い残し颯爽と奥へと向かって行った背中を見送った。顔から火が出そうだった。
 俺、そんなに不安そうな顔してたのか?
 更に情けなく、格好悪い自分に嫌悪する

 シアとリーテ。赤銅色の双子。制御のバングル。穿たれた紋様。ゲリューオンの【呪い】。
 産まれ落ちた瞬間より【呪いの双子】と呼ばれてきた。陰で囁かれる数々の伝聞。その理由がはっきりとした。
「【呪い】の再来、か…」
 少女の呟きはコトンと足元に落ちた。
 解毒になる薬草を捜しに莉哉から離れて一人になると、重たいものが背中に圧し掛かったような疲労感が押し寄せてきた。また一つ、圧力を背負った気分だった。
 当該者であるミウカにはひた隠しにしようとしてきた歴史の事実。周りの意図した思惑に反して、本人の耳には入っていた。
 ただ何故、【呪い】だと忌み嫌われ続けてきたのかが判らなかった。
 文献などは一切残されておらず、城の者は誰一人として教えてくれる者はいなかった。街の者でさえ公然と語るには禁忌とされ、人が語り継ぐには歪められたり脚色された部分も多い。その一つに魔獣は双子によって産み出され、ナラダを支配せんとしたのは双子だったという巷説もある。
 ミウカにその気はなくとも、十歳のあの日を思い返せば、そのように言われても仕方のないことなのかとも思う。

 元凶は、この【赤銅色】なのかもしれないと。




 ミウカが薬草を捜しに行ってどれくらいが経ったのか。
 数分かもしれないし、数十分かもしれない。静かに蠢くように鼓動が落ち着かないのは何の所為なのか。
 足の方も自分の意志で動かせるようになり、あと少し経てば立ち上がるのも可能そうだった。
 時間の経過を待てば良かったのに。
 彼女の存在が傍にいないだけで不安になっている自分を慌てて一蹴する。
 こんなんだからミウカが心配するんじゃないか
 手枷足枷になるために自分はこの世界へきたのではないと思いたいのに。
 ――では、何故俺はここにいる?
 あれがただの夢ではなく、歴史の断片なのだとしたら…。あまりにも切ない。


[短編掲載中]