唐突に音がして、そちらを見た。暗闇の中から無数の音が聞こえてくる。ガリ、ゴリと硬い何かが地面に擦れる音。増殖して近づいてくる。
 目を凝らし、凝視した。剣を握り締める。足はまだ痺れが残っていた。完全に動くことは出来ない。ならば、この体勢で防衛するしかない。
 ようやと剣にも慣れてきたばかり。実践経験なし。稽古でミウカやタキと交えたことは何度かあるが、手加減ありで勝てたことは一度もない。だからといって魔物は待ってくれる筈はなく。
 やるしかない…!
 もどかしく睨みつけていた足から視線を闇へと向けた。視界のきく範囲に魔物の先端が見えた。
 透明な水の色をした人形の岩、と表現するのが一番しっくりくる。徐々に全体を現していく。顔の部分には目鼻はなく、大きく裂けた口だけがニンマリと両端を持ち上げている。
 近づいてくるほどに、全身から漂う冷気が莉哉に纏わりついた。距離を縮めるのに比例して、体温が奪われていく。足が自由に動かせるようになる前に凍えきってしまいそうだった。
「くそっ」
 舌打ちし、腕の力だけでズルズルと後退した。だがいくらも下がれない内に最初の一撃が地面に刺さる。
 腕にあたる部分の先端は鋭く尖っており、風を切って振り下ろされた。土の下に隠れていた岩盤が砕け、土埃と共に破片が飛び散る。額を冷たい汗が伝った。寸ででかわしたのだが逃きれず、太腿部分の脚衣が切れ血が滲んだ。
 ズキリと痛みが走る。感覚が戻ってきている証拠とはいえ、これでは立ち上がれても走れそうにない。
 今や魔物の数は数えきれぬほどに膨れ上がり、莉哉を取り囲んでいた。
 正面に立っていた一体がパカンと口を開け、喉の奥から音を発している。隙間風が入り込んでくるような、竜巻が発生する時のような。奥の方から渦巻く空気が見えた、と次の瞬間には氷霰を含んだ冷気が吐き出された。
 咄嗟に剣を前に出し防御した。冷気は刃にぶつかり左右に分離する。痛みに目を開けると、肘から下が剣ごと凍りついていた。疼痛がじわりと締め付ける。
 取り囲む輪は次第に狭まっていく。必死に思考を活動させて次にとるべき行動を描いた。
 せめてこの足がまともに動けばっ…!
「…セ。ヨ、コ…セ」
 魔物からぎこちなく零れ落ちる言葉。一体が口を開けば呼応して他の魔物も復唱する。途切れ途切れではあるが、間違いなく人語だった。
「ヨコ、セ。…ソノ目ヲ、ヨコセ」
 手の部分をずいと突き出す。周りもそれにならう。尖った手が一斉に莉哉に向けられる。
「オ前ノ…目、ヲ…」
 伸びてきた腕を凍ったままの剣で振り払った。硬質な音。くだけた破片が地面に落ちた。痺れる痛みが腕を伝って躯に到達し、顔をしかめた。だがそんなことに構っていられなかった。
 攻撃の合図がかかり、次から次へと氷の腕が伸びてくる。莉哉の目を抉ろうと、その先端を光らせる。
 最初の数回は何とか弾いたり砕いたり防御したりで座ったままの体勢でも応戦していたのだが、数の上でも不利だった。顔を覆い、狙いである目を護るのが精一杯になる。
 巨大な陰が莉哉の目の前に立ちはだかる。振りかざされた氷の腕が不気味に光った。
 ちくしょう!ちくしょう!俺はこんなところで終わるのか!?
 目蓋の裏に鮮やかに蘇るのは、光に輝く長い髪。美しい顔。純粋な、どこまでも清らかな赤銅色の瞳。
 予測した衝撃も、痛みも、なかった。
 無数の音。悲鳴ともとれない音。空気を切る音。砕ける。折れる。落ちる。
「無事か!?」
 すぐそこで展開された魔物の最期を、莉哉の瞳はしっかりと見ていた。透明な壁の向こう側で少女が華麗に舞う。滑らかな剣舞。他の魔物がわらわらと莉哉に攻撃を仕掛けるも、その壁が彼を護っていた。
 頭上より舞い降りた騎士は莉哉の前に立ちはだかる。薄暗がりにあって輝きを失っていない刃は、陽炎をたゆたわせていた。倒れていく魔物は傷口から溶解していく。
「ヒャドーは触れるだけで凍り付いてしまう。今に溶けるから、少し辛抱してくれ」
 素早く魔物――ヒャドーの攻撃を弾き闘う華奢な背中。どこにそんな強さがあるのだろうと毎度思う。彼女を駆り立てるものは何なのだろうと。
 ミウカの言う通り、ガチガチに凍っていた腕は少しずつ溶けてきていた。以前とは違う【保護壁】内の温度。外で闘う彼女の剣に纏う陽炎。ミウカの能力はどこまで可能性があるのだろうか。
 何度攻撃を受けても【保護壁】は頑なに莉哉を護り続けていた。かすり傷一つ付かない。
 それは、必ず護ると決めたミウカの強い意志の現れ。莉哉の知らないところで交わされた誓い。
 何も出来ないのだと、何の足しにならないのだと、誰に言われなくとも自分が一番判っていた。それでも、やっぱり何度繰り返しても、護られるだけなど歯痒くて仕方なかった。
 この右手に握られる剣は、なんの為にある!?
 ――シアも、あの時の彼も、同じ思いを味わった…!?
 そうだ。この壁は単体を対象に護るのであれば自由に動ける筈じゃないのか。
 ヒャドーに効果的な熱を帯びた剣で優れた剣術を使い果敢に攻めていても、増殖してくる魔物相手に一人では分が悪すぎた。
 魔物は、執拗に目標である莉哉だけを攻撃している。まずはこの壁が邪魔であると。ミウカには目もくれない。何体倒そうとヒャドーは矛先を変えようとはしなかった。
 時間だけがずるずると経過し、ミウカの躯のあちこちに氷の結晶がつき始めていた。少女の動きも鈍くなっていく。それでも、壁の強固さだけは変わらなかった。
 柄を握り直して顔を上げた。技術は遠く足元にも及ばないのかもしれない。だが、彼の精神は、目は闘う者のそれとなる。
 腕はだいぶ自由がきくようになってきた。突き刺す痛みもない。ぐいと気合を入れ立ち上がろうとした。
「…ガウ。チ、ガウ!」
 突然一体のヒャドーが叫んだ。先頭に立って壁に腕を突き立て弾かれたところだった。周りもならってざわつき出す。
「なん、だ…?」
 それまで間近に鳴り響いていた壁を破壊しようとする音がピタリと止んだ。目の無いヒャドーの顔が莉哉から違う方へと向けられる。
 ――どんなに圧力をかけても崩れない壁。それを紡ぎだしている者の方へと。
 莉哉の叫び声は、無数の鋭い音に掻き消された。振り返った少女の瞳と一瞬だけ交差する。
 純粋で美艶の真紅は、次の瞬間、後方へと弾き飛ばされた。
 岩石の壁に縫い付けられた少女の躯。細く鋭い多数の氷の杭は無常に、容赦なく、その肢体を赤に染めていく。元の服の色などすでに見えなくなりつつあった。その杭さえも赤に染める。
 思い出していた。街角でマトゥーサの父親に刺された時のことを。
 数メートル下に出来ていく血溜まりがその面積を広げていく。あの時とは比べものにならないくらい、怖ろしい出血量だった。目蓋は固く閉ざされ、両手足は力無く垂れ下がる。
 【保護壁】越しに名を呼び続けても反応は一切返ってこない。それなのに…。
 莉哉を護る見えない壁は、いっそ強く、紡がれている。
 何と叫んでいたのか自身でも判らなかった。ただ精神の底から叫んで、真っ直ぐに少女だけを見つめて、剣を振り回していた。動き出した莉哉に臆することなく飛び掛ってくるヒャドーは最早、彼の進路を塞ぐ妨害にも成り得なかった。無我夢中で繰り出された斬撃は的確に敵を薙ぎ倒していく。
 悲鳴と、怒号と、破壊の音と。様々な不協和音が入り乱れていた。その隙間に割り込んだ凛とした低い声。考えるよりもその方向を見遣るよりも先に、指示に従い躯を屈めた。
 地が動くのを感じていた。微震はやがて巨大な音になり、足元の地面もその下に隠れていた岩盤も波打つがごとく盛り上がる。ゴボゴボと底から吐き出される地を形成する物質。
 バランスを崩し両手をついた。莉哉を乗せた岩盤は一際高く盛り上がり、均衡を保とうとしているようにみえた。
 周りにいたヒャドーは次々と亀裂に落ち、地に喰われていった。まるで魔物だけに狙いを定めているかのような正確さだった。
 振り落とされぬよう地にしがみつきながら少女を見上げた。岩石の壁は沈黙しているが地鳴りの影響で空洞全体が激しく揺れており、少女を貫く氷の杭が少しずつ抜け地に落ちては砕け散った。
 あのまま抜け続け少女を支えなくなれば、この岩盤の波に呑み込まれてしまうだろう。皮肉なことに今は、あの杭こそが彼女を護っているのだ。
 助けたい。その気持ちだけが彼を突き動かす糧となる。
 地鳴りが響く直前に聞こえた声の主の存在など忘れ去っていた。彼女を護りたい、ただそれだけだった。
 駆け出したのと風が吹き荒れたのは同時だった。
 壁に護られた莉哉が怪我をする事態にはならなかったが、その風圧は凄まじいものだった。再び手をつき、風が収まるまでの数秒間は動きがとれなかった。
 一斉に風も、地鳴りも収まり――そして、ミウカの躯がゆっくりと前へと傾いだ。
 落ちていく。落ちていく。完全に届かぬ距離。無意識に両手を伸ばそうと動いて、腕が持ち上がる前に気がついた。
 静まり返った地の上に、ミウカの真下に、銀の長身が見えた。両手を広げ、待ち構えている。
 重力に引っ張られ勢いのついた躯をいとも簡単にその腕に抱き留めた。優しく、包み込む。開かれた少女の瞳は元の色に戻り、莉哉を見つける。状況を見回し、【保護壁】を消去した。
 多少の名残を残したでこぼこの地面を渡ってコウキとタキ、そしてミウカの元へと駆けつけようとした。ざっくりと切られた足は想像以上に痛みをもたらし、体勢を崩した。
 抱きかかえたままでいようとするコウキの腕を押しやり、止めようとするタキの声を無視してミウカは地に足をつけ、莉哉に向かって歩き出そうとしていた。
 転がるヒャドーの屍や破片。それらは一体たりとて動く筈がなかった。けれど――
「目…、ヨコ…セ!」
 莉哉の背後に立ち上がったヒャドーは、あちらこちらから躯の欠片を落とした。顔の半分は欠け落ち、右腕の途中から先はなく、左腕は肩からもげていた。絶命前の執着心が最後の力を魔物に与えた。抉り取る為の切っ先はすでに失っており、莉哉に向かって倒れ込んでくる。
 斜め上に振り仰いだ莉哉の顔にヒャドーの陰が伸びてくる。僅かに残る右腕が、薄い茶色の瞳だけを狙っていた。
 よろめいて躯の重心が変なところにかかり、傷が酷く痛んだ。自力でかわすのは不可能だった。
 小さな風が頬をかすめる。
 莉哉に落ちる筈だった衝撃は、赤銅色の影が受け止めていた。


[短編掲載中]