華奢な肩を貫いたヒャドーの腕が莉哉の顔の寸前で止まった。真っ赤な血飛沫が顔にかかる。動けなかった。見開いた目を閉じることもできなかった。
 ただ呆然として、目の前に現れたミウカの背中を間近で見ていた。
 銀色の兄弟の声が同時に少女の名を叫んだ。地が鋭い武器となり下からヒャドーを両断し、風がそれを粉々にした。魔物が消え、ミウカの躯がぐらりと傾いた。
 足は、立ち上がることも躯を動かすことも莉哉に許さなかった。自分に向かって倒れてくる少女。両腕を広げて、しかとその腕に抱き留めた。
 直後、駆けつけた兄弟が二人を挟む格好で屈み込んだ。コウキは素早く止血を施して、タキは名を呼び続ける。
 莉哉は、自身にかかる重みが、温もりが失われないことだけを祈っていた。
「タキ…うるさい…」
 ふっと口元が緩み、瞳が薄く開かれた。揃って顔を近づけた三人に対して更に笑みを洩らす。
「見た目ほどひどくはない。…平気だ」
 起き上がろうとするミウカは抱き上げようとするコウキの腕を押しやった。微笑みは掻き消え、愛らしい唇が硬く引き結ばれる。
「平気だと、言ってる」
 誰かに対してこんな冷たく言い放つのを初めて聞いた。完全な拒否。それが自分に向けられたものじゃないと判っていても、ひどく居心地が悪かった。常に飄々としたタキですら驚きを隠しもせず、まじまじと少女を見つめている。
 コウキが困惑した顔を見せるのは稀有なことだった。だがそれも一瞬のことで、すぐさま通常の沈着な彼に戻ると先に立ち上がった。
 その時に銀髪の隙間から覗いた――首筋に残された小さな口付けの跡。受け留められた時、ミウカがそれを見た可能性は充分にある。
 拒絶したのはコウキだけで。それが何を意味するのか…。


◇◇◇


 流砂に二人が呑み込まれた後シェファーナをフィーゴスまで送り届けたタキは、兄と共に洞窟へと足を踏み入れた。あと一歩遅ければ、こんな風に全員が揃って、生きてフィーゴスに入国することはなかった。
 コウキを跳ね除け自分の足で見事歩ききったミウカは、城から駆け出して抱きついたシェファーナの泣き顔を見た瞬間、崩れ落ちた。

「どうしてミウカはああなんだ?まるで…」
 自分の声に、躊躇いがはっきりと感じられた。
 己の欲求に正直に従い、問うべきか、否か。知りたいことは山ほどある。すべてを知りたいと思う。同時に、問うてはいけない気がして。知るのが怖いとも、思う。でも、やっぱり。そんな思考の繰り返しだった。
 フィーゴスに滞在して数日が過ぎていた。
 ミウカとタキがフィーゴスに呼ばれた理由。それは、フィーゴス国近隣での魔物の異常発生により、国内の戦力とコウキだけでは厳しい状況だと、判断されてのことだった。
 シェファーナの介護手腕は優良で、加えてコウキ付き女官の為、同伴している。
 コウキ並びにタキ、そしてミウカが抜けるとなるとナラダ国内が手薄になるのは周知のことだったが、ナラダは剣聖と称される戦闘国家である。自国を護るくらいならば堪えられるだろうとコウキは判断した。
 フィーゴスの情勢を安泰させてからでも問題ないと。それほどにフィーゴスの状況は切迫していたのだ。
 即刻ナラダに帰ると言い張ったミウカに、あの晩同様、辟易した表情で彼女を見下ろしていたコウキは回復を待ってからにするとし、頑として耳を貸さなかった。今回は動けなくなることも発熱にうなされることもなかったのだが、一人としてミウカの意見に賛成する者はおらず、結局数日の休息をとることになった。
 明らかにミウカの怪我は動かしていい程度のものではなかったから。

 フィーゴスの城はナラダのそれに比べれば二周りは小さい規模なのだが、絢爛豪華の度合いでいけば劣るどころか格段上だった。要するに、莉哉には落ち着かない空間ということになるのだが。
 商業が盛んなフィーゴスは活気に満ち溢れ、物も溢れかえっていた。
 上質な触り心地のゆったりと大きなソファに所在無く座り、向かい合って座るタキに話し掛けた。顔を背けて不機嫌をあからさまにしている。
「…ああって?」
 むすっと返事をするタキに苦笑する。ぶすくれる原因を知っているだけに同情も否めないのだが。
 フィーゴスに着いて以降、ミウカの傍にいる暇もないほどに兄同様仕事に忙殺されていた。ミウカと莉哉を救出して城へ到着した頃には、ナラダ国宰相であるヘルバオもフィーゴス入りし、兄弟は政治事へと借り出される羽目になったのである。
 それがようやと、一息ついた時だった。
 タキが不機嫌なことに気後れしているわけではない。ただ、口にしたくないことだったから躊躇っていただけのこと。切り出したからには言うしかないと思い定めた。
「なんだか、生き急いでいるみたいに見える」
「何故…そう思う」
 想像以上に鋭く刺さった視線に内心驚きながらも、表面は平静を保った。
「俺が見てきたこと、総てで」
 抽象的な物言いだったかと軽く反省するも、タキの顔つきで要らぬ心配だったと悟った。彼も常々持ち合わせている沈思らしく、つと床に目線を彷徨わせる。
「ミュウが…」
「……」
「…彼女には背負うものがある。想像すらし難いほどのもの。兄様も、誰も、知っていようと理解していようと、代わりにはなれない。どれだけもどかしいと、この手で何とかしようと思っても、どうにも出来ないものだ」
 悲観に暮れた顔だった。奥に押し込めている感情を、必死に表に出ぬよう努めている。
「それを知りたいと言ったら?」
「知ってどうする?同情でもしてやるのか?お前はっ…」
 若干語調が荒くなるタキの言葉尻を遮って、莉哉は静かに言い放った。揺らぎのない声で。
「いつか還る者だろう。この世界から、いなくなるのだろう」
 いつだったか、タキに言われた言葉。それは真実。いずれそうなる未来。あの時はそう望んでいた。いつまでも、ましてや永遠になど、いるつもりはなかった。
 けれど今は。
 もしも彼女の総てを知ることが可能なら、それで彼女に圧し掛かるものの正体を少しでも軽くすることが自分に出来る術があるというのなら、ならば元の世界を棄ててもいいと、本気で思っていた。
「前にそう言われた時は尤もだと俺だって思った。だからこそ言い返す言葉なんてなかった」
「今は違うとでも?」
 苛立ちの含まれた声だった。莉哉の心に向けられた怒り。
「どうかな。けど、こうして還る方法も不明で、その方法があるのか、還られないかもしれないというのなら…。それならそれで、ここで生きていく方法を考え始めてはいる」
「諦めてるのか?還りたいとは、思わないと?」
「さあ、どうしたいんだろうな。色々なことが一挙に押し寄せ過ぎてて、何から手をつけて考えていけばいいのか、さっぱりなんだよ」
 思考は掴み所のない霧のようにぼやけているのに、心に芽生えた感情が日増しに成長していく。今ならまだ摘み取ってしまえば済むのに、大切に大切に育てていきたくて…。
 ぐんと急激な引力に引っ張られ、内憤を露わにした碧眼が間近に迫っていた。莉哉の胸倉を掴んだタキの手はぎりぎりと締め付ける。
「同じことをミュウの前で言ってみろ。即刻この僕が斬り棄ててやるよ」
 怯むことなくタキの手を払い退け、負けじと睨み返す。
 彼がどれだけミウカのことを大切にしているかなんて、わざわざ言われなくても痛いほど伝わっていた。共に闘い、幼き頃よりずっと彼女を知っていて。それに比べて、何も知らない自分、役に立たない自分。総てが悔しかった。
 タキは身を翻し真っ直ぐに戸口へと向かった。尚も背中を睨んでいた莉哉に、振り向かずに言葉を落とした。
「ミュウが望むことではないし、嫌がることだから言うつもりはなかった」
 雰囲気の変化したタキの独白に、それまで向けていた視線を軟化させる。銀髪の少年は一呼吸分躊躇って、俯き気味に言った。
「ルーリの花が貴重なものだというのは?」
「知ってる」
「なら、それがミュウにとって必要なものだということも?」
 返事を返せなかった。少女の屈託ない言動が思い出されるばかりで。
「抱えるものがあまりにも大き過ぎて、何でも抱え込もうとし過ぎて、彼女は花がないとなかなか眠れない」
「……」
「不眠を利用して、と言えば可笑しな表現だが、ミュウはずっと捜している。お前が元の世界に還れる方法を。ナラダにある文献という文献を片っ端から閲して…。今回のフィーゴス往訪の目途にはそれも含まれているのだと僕はみてる」
 それを聞いてもお前は、まだ自暴自棄な発言をするのか?…口を噤んだタキの背中はそう続けていた。
 何も知らなかったからこちらに非はない、とは言えない罪悪感に苛まれる。恥辱が込み上げ、怒りが込み上げる。
「一人で背負い込もうとするのはミュウの悪いところだと僕も思う。けどな、そうせざるをえない局面にあるのも事実。これ以上、ミュウに責を積み重ねさせたくない。何でもかんでも引責するのを見ていたくない。それは間違いなんだ。利己的だと言われても構わない。僕が非難されることでミュウの負担を少しでも減らすことが出来るなら…!例え、」
 握られたタキの拳が小刻みに震えるほど力を入れた。
「祈りに応じたのがお前であって召喚という事態を招いたのだとしても、それはミュウの所為なんかじゃないだろう!?」
 徐々に昂ぶった感情は泣き声にも似た悲痛な叫びとなった。一度出てしまった言葉は取り消せる筈もなく、後悔と共にタキは深い溜息を吐いた。苛立ちを隠しもせず、後ろ手でドアを閉めると足音を響かせて去って行った。
「どういうことだよ…?」
 呟いた声は受け取る相手を失って、莉哉の足元に転がった。

 降り積もった澱が、堅く重く心に溜まる。


[短編掲載中]