『もしかして、惚れちゃった?』
 タキが彼女をからかっただけなのだと知っていた。そんなわけはないのだと。けれどそれを「嬉しい」と感じていた自分が、確実にいた。
 ミウカが自分に親身になるのは、運命に巻き込んだ責任から。それ以外に、何もない。
 この、心を千切られる痛みの名前を、なんて言うのだろう――


 ナラダ国城内にいれば女官であるシェファーナは仕事が終わるまで、個人的な時間がないほどに忙しく立ち働く。だが、こうしてフィーゴスに身を置いている今、ミウカの回復を待つ間の数日間、ここでは何もすることがない。
 コウキやタキは政に借り出されあまり顔を合わすこともないので、必然的に莉哉とミウカの身の回りの世話を焼くこととなるのだが、フィーゴスにも女官は当然いるわけで、彼女もまた客人扱いを受けるくらいだった。なのでミウカに付き添いの必要がなくなる頃には手持ち無沙汰になっていた。
 元々の気質なのか仕事に影響を受けたのか、陽の高い内からのんびりと時間を過ごすのがひどく苦手だと言った。
「長めの休みをもらったと思えばいいんじゃない?」
 と気楽な感じで言ってはみたものの、何となく落ち着かない様子で「そうですね」とだけ返事を寄越した。全く納得していない口振りに思わず吹き出してしまったのだが。
 隠されていた断片をタキによって突き付けられた翌日から、シェファーナを連れてフィーゴスの図書館へ赴くことが日課に加わった。
 莉哉とて(シェファーナにはああ言ったものの)じっとしているのが性に合っているわけではない。自分に出来ること、しなければいけないこと。召喚されて以来ずっと気にかけてきたことだった。
 やっと見つけた『やるべきこと』――せめて自分の身くらいは護れるように――を叶える為に剣を習い始め、鍛錬は欠かさないようにしていた。
 朝食前にそれを行い、食事が済めばシェファーナを連れ立って街へと向かった。
 膨大な文献や資料を保管している国立図書館。そこに行けば何かが得られるかもしれない。ミウカだけに任せっきりにするのはやめにしようと決めた。というか、調べるという行為に思い至らなかった自分に腹が立った。
 ナラダの者、とりわけ皇室に縁があると証明すれば、極秘扱いの文書も閲覧可能だった。しかしここで問題が発生する。莉哉は文字が読めないのだ。
 それを彼女に相談したところ、手伝いを申し出てくれた。


 足繁く通い始めて五日目。収穫もないまま図書館を後にし、肩を落としながら歩いていた二人の視界に一軒の花屋が入ってきた。
 街の中心部に位置する円形状の広場。レンガが敷き詰められたそこの中央には豊かな水を吹き上げる噴水がある。風の向きによって水飛沫が流れてきて莉哉の頬にかかった。前を見て歩いているようで周りの景色を気にも留めていなかった莉哉の目に、乳白色の花が映った。
 無心で駆け寄って、手に取っていた。
 店主は珍しい色を宿した莉哉が近寄ってきたことに若干驚いたが、根っからの商売人はすぐさま体裁を取り繕い、愛想のいい笑顔を向けた。
「ルーリの花を知ってるのかい?」
 店主の声にはっと意識を戻す。無意識の内に躯が動いていた。何となくバツが悪くて、そっと花を元の位置に戻した。
 安くするよ、という。だが莉哉はお金を持っていない。それどころか、お金自体を見たこともなかった。以前ミウカと市へ出掛けた時も会計まで任せっきりにしていたと思い出す。
 シェファーナは小首を傾げて莉哉を見上げていたが、合点がいったように顔を輝かせると、ポケットを探り始めた。
「おいくらですか?少ししかないのですが…」
 掌に広げられた硬貨を数えて、店主は表情を曇らせた。足りないのだろう。
 武力を誇るナラダでは、特に城内では花の需要度は高い。それに比べ商業中心のこの国では必要性は無いに等しく、それでも上流階級の者が時々暇潰しに購入したりする。それ故、比べても高額になってしまうのだ。
 しゅんと気落ちしたシェファーナに心が痛まなかったわけではないが、店主にとっては大事な収入源であるルーリを安値で譲るわけにはいかないといったところだろう。気まずい空気が流れた。
「申し訳ありません」
「なんで謝るのさ」
 小さな体躯を更に小さく縮めるシェファーナに笑顔を向けながら、内心で落胆する。
「栽培しているものなのか?」
「いや。人の手では蕾をつけるのでさえ難しいものなんで」
「では、咲いているものを摘みに行っているんだな?貴方が?」
「…そうですが」
 莉哉の言わんとするところがいまいち理解できず、店主は首を傾げた。失礼な話だが、店主の体型を見る限り、機敏そうでも運動神経がとりわけよいようにも見えなかった。ならば自分にも摘める場所に咲いているのではないか、というのが莉哉の見解だった。
 身を乗り出して店主を手招きすると声をひそめた。
「場所を、教えてくれないか?」
「はぁ」
 間の抜けた返答の店主に、再度はっきりと繰り返す。
「俺でも行けるような場所ではあるけれど、全く危険がないわけでもない。少々骨の折れる所に咲いてるからな」
 歯切れの悪い店主の考えの裏を読んで、莉哉は愛想笑いを浮かべた。二人がひそひそ話し出して内容が全く掴めなくなるとシャファーナはむっと眉をひそめたが、割り込むわけにはいかず押し黙っていた。
「なんなら商売分、摘んできてもいい。その中からほんの少し、分けてくれればいいから」




 暮夜にカンテラの灯火が浮かんでいた。草地を小走りで移動するそれは、時折背後を気にしながら森を目指していた。
 すっかり木々に紛れると、頭からすっぽり被っていた布の頭部のみ払う。
 その下から現れた薄茶の髪と瞳。枝葉の隙間から注がれる月の光に照らし出される。凛と背筋を伸ばし、臆することなく歩を進めた。
 視界が広がったとはいえ、手にしている光だけでは充分な光源とは言い難かった。足元に気を配りながら奥へと進む。しばらく行くと広い草地に出た。膝丈ほどの生い茂る草が夜風に吹かれてなびいた。ひんやりとした空気が頬を撫でていく。
 ぐるりと見渡して、目印となる岩を見つけた。天を見上げ、一際輝く星と自身の立ち位置と目印を、花屋の店主に教わった通りに脳内で照らし合わせて進むべき方向を導き出す。
「あっちか…」
 ふとシェファーナの顔が浮かんで後ろめたく感じたが、ここまで来て引き返す理由もないだろう。それよりも帰った後に見られるであろう表情を想像するだけで心が弾んだ。
 城へと戻る道中、店主との話を推測していたシェファーナはいつになく強い口調だった。
「駄目ですよ」
「なにが?」
 湧き上がる喜悦を押さえて空とぼけた。
「判っていらっしゃるんでしょう?危険なことはなさらないで下さい。お気持ちは判りますが…」
「なんのことだかさっぱりだよ、シェファーナ」
 あくまで知らんふりを決め込んで、笑顔で話を断ち切った。
 少々強引すぎたかもしれないが、あの花が手に入るのなら後から小言を言われようと気にはならない。彼女の為にしてあげられることが一つでも見つかったことが、逸る気持ちに拍車をかけていた。
 方向を特定してからは比較的容易に、ルーリの花の群生地へ辿り着けた。優しい清澄な香りが莉哉を包み込む。月に見守られ七色に輝くそれは、とても神聖で神秘的だった。
「なるほど、ね」
 皮肉な笑みを浮かべ、立ちはだかる岩壁を見上げた。そそり立つ岩肌のあちらこちらに咲き誇るルーリの花。ほとんどが手の届かぬ高さにある。
 あの体型じゃ一苦労するかもな。
 でぷっとした店主のお腹を思い出し、くくっと笑う。カンテラを地面に降ろし、上衣を脱いだ。
 よし、と気合いを入れて、慎重に登り始めた。


[短編掲載中]