草地でも土でもない、石畳に道が変化した時になって、ようやと莉哉は顔を上げた。
 どんよりと垂れ込める雲から降り続ける雨のせいで、全身ずぶ濡れだった。躯は冷え切っていたが、そんなことはどうでもよかった。ふらふらと空っぽの頭のまま歩いてきて、よく無事に戻れたものだと思う。
 力無く両脇にあった腕を見える位置まで持ち上げて、手首にはめられたバングルを見つめる。ミウカにもらった、彼女と同じ色をした腕輪。
 攻撃は、弾かれた。莉哉の防御ではない。最後まで剣が鞘から抜かれることはなかった。躊躇うことなく振り下ろされたハルの剣は衝突音を発して、莉哉には届かなかった。
 ――鮮烈な赤銅色の光が放たれ、透明な壁が彼を覆い、護っていた。
 そんなことができる人物を、彼は一人しか知らない。

「リイヤ!」
 城から華奢な影が駆けてくる。真っ直ぐに莉哉に向かって、彼を憂えて。
「どこに行っていた!?心配させんな!」
 両手で服を掴まれ揺さぶられる。愚鈍な動きで莉哉はミウカを見下ろした。揺さぶる手が止まり、その手が震えていることに気づいた時、急激に泣きたい気持ちになった。
「うん。ごめん…」
「リイヤ?」
 喉に込み上げるものを無理矢理飲み下す。
「これが…」
 ミウカにも見える位置まで手首を持ち上げた。
「このバングルが護ってくれたよ、ミウカ」
 莉哉の笑顔は、どこまでも悲しげだった。




 夜が更けるにつれて、天候はひどくなっていった。
 怪我がないのを確認し、元気がないのを疲れている所為だと判断したミウカは「ゆっくり休め」とだけ残し、早々に部屋を出て行った。
 混乱していた。
 記憶が渦巻いて、種々雑多な色が巡るように、混濁の波に巻き込まれていた。何から整理して考えればいいのか、判断がつかない。
 考えても答えは出るものではない。然るべき時宜がくれば、啓けるものなのか。
 謝ろう――
 ほんの少しだけ回復した気力に鞭をくれて、莉哉はミウカの部屋へと向かった。手の中で輝いている花が、柔らかに香った。
 向かう途中でいよいよ雷を伴い出した風雨に速度を上げて行ったものの、部屋に少女の姿はなかった。
 捜そうとして、ナラダの城内以上に間取りを掌握していないことに舌打ちした。どこかで怯えているのかと思うと、気が気じゃなくなる。
 闇雲に捜し回るより、まずはコウキに尋ねることにした。癪だったが、少なくとも莉哉よりは彼女のことを知っている人物だからだ。
 扉の隙間から灯かりが漏れていた。ノックをすると低い声がすぐに応答する。
「遅くに悪い。ちょっといいか」
 戸口で話が出来ればよかった。長居をするつもりはなかったし、部屋の中の方まで入るつもりもなかった。ルーリの花を持つ手は背にまわし、もう片方の手で大きく扉を開けた。一歩分だけ進み入って、つと顔を上げる。
 視界に飛び込んできた光景に、眩暈を覚える。何かを言うよりも考えるよりも、躯が勝手に動いていた。
 慌てて廊下へとって返し、閉めた扉に背をあてた。速まる鼓動に動揺を隠し切れずにいた。頭の中が真っ白で、廊下に佇む闇を見据えた。
「リイヤか。入ってきて構わん」
 莉哉とは対照的な、落ち着き払ったコウキの声が扉の向こうから聞こえた。
「…っ、ああ」
 搾り出して返事を返し、静かに深呼吸をする。落ち着け落ち着けと何度も繰り返した。驚いただけなのだと、痛いほどの鼓動はその所為なのだと、言い聞かせようとした。
 慎重な動きでゆっくりと扉を開けると、先ほどと変わらぬ格好のままコウキが床に座っていた。片膝を立て、片足は伸ばして。背は壁に預けている。そして、
 その腕の中に抱かれているのは、捜していた少女だった。
 安らぎに満ちた顔。穏やかに繰り返される寝息。警戒心の欠片もない、全身から力の抜けた姿態。総てを預け、安心しきった寝顔だった。
 莉哉が部屋に入ったというのに、空気の流れは変わったというのに、あの中庭で見せた速やかな覚醒は訪れない。包まれ、あたたかさに抱かれ、安穏の淵へと完全におちていた。
「なんだ」
「あ…いや。ミウカを捜してて…」
 しどろもどろになってしまった。言葉を選んでいる余裕がなく、莉哉に向けられる碧眼はあまりにも真っ直ぐ過ぎて、ひどく心地が悪い。
 他を寄せ付けない空気。
 だがそれは、マトゥーサの父親と対峙していた時のものとは異なるもの。見えないぶ厚い壁が立ちはだかっていた。まるでミウカが作り出す【保護壁】のように。
 隔たりを壊すことは、誰の手にも不可能に思えた。
 回避する方法は一つだけ。直ちにこの場を離れるしかない。
 鈍器で殴られたような痛みが眩暈を引き起こしていた。目を逸らさねば倒れてしまいそうになる。
「これを渡したかっただけなんだ。頼めるか?」
 手渡すのであれば前進しなければいけない。なのに、じりじりと後退していた。
 こんな時こそ、本心を悟られたくない時こそ前面に出すべきなのだ。元の世界で培ってきた術を。笑顔を作り、声色を作る。胸の内を引き結んだ。
「頼むな」
 近くにあった机に花を置いて、踵を返した。

 絶対の信頼。絶対の安心感。絶対の安らぎ。総てを預けられる場所。唯一の、居場所。
 ――あの拒絶は、彼女の本音の裏返しだった…?

「見たのか」
 扉に手をかけた動作が引き止められる。
「赤銅色の双子。…その歴史を」
 弾かれたように振り返る。真摯な碧眼が真っすぐに向けられていた。
「何故、」
「知っているのか」
 後を引き継いだのはコウキだった。自身の胸に寄り掛かって眠る少女を見下ろす。かつて見たことがないほどの柔らかな視線。
 心の奥が疼く思いだった。顔を逸らしそうになるのを堪えている莉哉には気づかず、コウキは寝顔を見つめながら続きを紡いだ。
「ミウカから聞いた」
「ミウカも…見た、のか?」
 コウキは黙って頷いた。彼女は見ていないのだと安堵した想いが、音を立てて崩れていく。
「お前のその瞳は…。スラと、同じ色を持っている。それは《透察眼》の証なのかもしれんな」
 特別な色を宿す瞳。とても強力で、とても明瞭な…瞳の証なのかもしれない。
「そのせいで、あれを見たというのか?そもそも《透察眼》とはなんなんだ?」
 何度か経験した、あの絵の具をぐるりと掻き混ぜたように歪む視界の後に見えた光景。あの感覚は《透察眼》が見せたもの…?
「未来を、又は過去の真実を、垣間見る目。《透察眼》だからといってその色であるというわけではない。現に専属の占者をしているターニアなどは全く違った色をしている」
 莉哉が召喚されるまで、スラと同じ色を持つ者を見たことがなかった。
 五年を経て、初めて知らされた事実。彼女が持っていた、誰よりも強い《透察眼》。コウキにでさえ語られなかった――数々の未来、そして過去。どれだけの過重を彼女は一人で抱え込んでいたというのだろうか。それに気づけなかった自身の愚かさを、コウキはずっと悔やみ続けていた。
『波紋を投げ掛ける者』がその色を宿していることが、何を意味しているのか。
 ターニアに『波紋を投げかける者』の存在を知らされた時、光が見えたと思った。もう身近な者を失くさずに済むのだと。先は明るいのだと。必ず好転するのだと。けれど、それは確実ではない。確かな未来ではなかったのだ。
 ミウカが解放されるとは限らない。保証など、どこにもなかった。
「過去を…知る覚悟が、あるか?」
 しんと静まり返った部屋の中に、静かな寝息だけがあった。空気を震わすほど凛としたコウキの声が響いて、ぴくんと反応した。
 考えずとも、答えは決まっている。
「勿論だ。…聞かせてくれ」


[短編掲載中]