水底から水面へと急浮上したみたいに、空気が飛び込んできた。少女の目蓋はパチンと開けたてられる。眩い光源が飛び込んできて、咄嗟に目を閉じる。目蓋越しに感じる陽の光。そろりと再び目蓋を持ち上げた。
 一気に戻った感覚。躯の中心から急速に体温がなくなっていく。流れ出るあたたかな液体は止まってはいなかった。
 さすがに、そこまでは無理か…。
 知らずの内に【呪い】の代償に頼っていたことに、皮肉な笑いが零れた。己の能力を誰よりも嫌っていた筈なのに、せめてこの時だけでも…ハルを止められるだけの回復を望んでいた。
 現実は、容赦ないな。苦笑が儚く洩れた。
 痛みはない。痛覚がおかしくなっているのだろう。あるのは照りつける太陽の下、冷感が広がっていくことだけ。
 救いは、視界がクリアなこと。痛感がないのも幸いだった。気力が途切れさえしなければ、動くことは可能だ。
 古の双子が力を貸してくれたのか…。
 ゲリューオンへと変化したハル。荒れ狂うのは魔獣そのもので、目の当たりにしたのはミウカとて初めてだった。
 恐怖はない。あれはハルなのだから。
 漆黒の魔獣を見据えたまま、ひどく震える膝を叱咤し、剣を支えに立ち上がった。数秒上半身を折った状態で喘いでいると、いち早くミウカに気づいた莉哉が少女の名を叫んだ。今だ羽交い絞めにされている。
 数瞬そちらを見、微笑んだ。
 それからつとハルの方へと視線を送ると、確かめるような足取りで近づいていった。
「駄目だ!行くなっ」
 莉哉の声は届かない。否、届いていても聞くわけにはいかなかった。ハルを止められるのは自分だけ。止めなければいけない。自分が、諦めるわけにはいかない。
「ハル!!」
 芯の通った声が魔獣に向けられた。ゲリューオンは近づいてくる赤銅の影に見向きもしない。
 ハルの意識は…!?
 焦燥が全身を駆け抜けた。瘴霧の攻撃は敵味方に一切の頓着はなかった。グラザン諸共漆黒の霧に喰われていっていた。
 矢に貫かれて以降、ハルにとってミウカ以外のものは総て敵となった。妹を失くし、魔獣に己の総てを投げ出した。最早動くものは皆、敵でしかないのだ。――それは戻ってきたミウカでさえ同等で。
 捕らえられ動きを封じ込められた莉哉は、現場より離されていきつつあった。権力行使でその拘束から自由になっていたタキはナラダの騎士と、ゲリューオンに果敢に立ち向かっている。
 そのゲリューオンに臆することなく近づいていく少女。
 一番に護りたいと願う存在がその身を破壊の方へと歩んでいる。彼女の覚悟は決まっているのだろう。己の中心から止め処なく流れ続ける血をものともせず、凛とした姿はこれまでのどんな時よりも力強かった。
 止めなければと気持ちばかりが焦るのに、その姿は制止を躊躇わせる。
 絶え間ない瘴霧が方々へ分散する。目前に、脇に、次々と砂地を燻らせる。自身の躯をかすめ傷つけても、少女は歩を止めない。
 一体、あの華奢な躯のどこに、あれほどの芯があるというのか。

「ハル!お願いっ…ハル!!」
 声を張り上げる。魔獣はミウカの声に反応しない。
 欠片も残っていないというのか!?
 逸ろうとする心を押し込めた。
 通じるだろうか…。通じて、ほしい。
 柄を握る手に力がこもる。ゆるりと動かして、刃はうなじにあてられる。
 闘いの輪から外されていた莉哉と自警隊の一部は、その動きを見つめていた。最中にあるタキでさえ目を瞠る。戻ってきたミウカに喜色を表す間もなく、その行動に錯愕した。
 いつかの、セトを救う為に起こした行動を連想させる。だが力の方向は地ではなく天に向かった。
 艶やかで鮮やかな赤銅の髪が風になびいて、少女の手の中から放たれた。舞い、ふわりと落ちる。
 ――それは五年前より少女の願いと共に伸ばし続けられた髪。
 ばっさりと首筋で断ち切られて尚、輝きを失っていない。それは意志の顕れ。覚悟の顕れ。
 その願いを今一度、声にして叫ぶ。必ず届くと信じて。

「還ってこい!共にいこう、ハル!」


[短編掲載中]