気持ちは海底の静けさのように落ち着いていた。
 ゲリューオンの囁きはひどく甘い。それはまさに、模索し続け啓けなかった路に投げ入れられた光で。微細な希望でも、正しくなかったとしても、縋り付きたくて仕方なかった。ずっと葛藤してきた。
 時には囁きに負けそうになり、自分を戒め堪えた。
 けれど本能はとっくに悟っていた。
 このバングルさえなければ楽に【保護壁】を紡げたと。遥かに巨大で強靭なそれを。【赤銅】の能力を抑制なく存分に扱えるようになると。解放すればもっと容易く、様々なものを護ることも可能な力を手に入れられるのだと。
 魔の力を調整できたなら、ハルを止められるだろうか。敵の懐に飛び込む以外、方法はないのではないかという気にさえなってくる。調整できるだけの力が、自分にあるだろうか。
 揺らぐ、揺らぐ。囁きに負けてしまいそうになる。
 他に路はない?いちかばちかに賭けて、路を無理矢理啓くしかない?
 内から、闘うことができたら…。
 バングルに亀裂が入る。まるで少女の心がなびくのに同調するかのように。
 莉哉の声が届かなかったわけじゃない。届いて尚、彼女の心はその路を選択した。決して慎重ではないその路に、僅かな希望に賭けて。
 赤銅が大きく痙攣した。無数の細かいひびが、バングルを破壊していく。少女の麗姿が徐々に失われていく。
 【呪い】の紋様が背中から全身へ広がっていった。
 ざわざわと蛇が這うように、服の隙間から覗いた先端は華奢な肢体を覆いつくさんと穿たれて、黒く漆黒の闇色へ、清雅な赤銅色を染めていく。
 制御のバングルは、はめた者の意志があってこそ、その威力を確固たるものにする。ハルにでさえ、それは際のところであったのだ。
「何故だ!ミュウッ…。僕に君を斬れというのか!?」
 ハルに比べて遥かに遅い変化だった。見る者には確実に近づいているように映る。けれど内部で彼女は必死に抵抗していた。手放しで解放する気は微塵もない。呑み込んで力を手に入れるのはゲリューオンではない。この自分なのだと。
 魔の化身へ変わる気などない。魔獣の力のみ、自身に取り込んでやろうとしていた。
 そんな一進一退の変化の内情を、莉哉だけが気づいていた。

 少女の姿を見て思う。思い出す。
 彼女が求めたのは、生きる糧だったのは、ハルと共にあること。…なら、迷う必要なんてない。双子を『無』に還すことなく、【呪い】を消滅させる。
 それが出来るのはこの世界に呼ばれた莉哉だけ。

 けれど、どうしたら。
 方法が判らない。莉哉の道標が見当たらない。ぎり、と歯噛みした瞬間声が落ちてきた。

 ――リイヤ様…。
「…!?」
 意識に直接響く声。莉哉に古の史実を見せた声。閃光が『無』の空間を展開した。戸惑うがすぐに、気持ちを持ち直す。
 ――どうか…あの子を救って。
「俺だってそうしたい。でも方法がっ…」
 ――私が路を示します。選ぶのは貴方次第…。
 声は躊躇いがちになる。召喚された運命をまっとうすれば莉哉は、二度と元の世界へは還れない。ラスタールにも。けれど彼女を救う路がそれしかないというのなら…。
「教えてくれ」
『駄目だ!』
 莉哉の声と、別の声が重なった。弾かれたように莉哉は周囲を見渡した。遮った声の主を見つけ、瞠目する。
「ミウカ!?」
 少女は、少女の姿をしていた。もう一体のゲリューオンへ変わろうとする前の、美しい姿のまま。莉哉の意識が見せている幻影。だが綴られる言葉は、彼女のものだった。
『駄目だ、リイヤ。元の世界へ還れと言った筈だ!』
「なんっ…だよ、それっ!俺にしか出来ないことなんだろ!?唯一の方法なんだろ!?」
 護られる為だけに、ここに来た訳じゃない。
『スラ姉、やめて下さいっ。それは彼に示すべきではないのです!』
「スラ姉?…この声は、二人の姉さんだったのか…」
 ――ですが、ミウカ。このままでは貴方達が…。
『自分達が引き起こしたことの後始末は、自分達でするべきなのです。莉哉にそれを求めるなど、この世界に生命を費やさせるなど、傲慢でしかありません!誰にもそんな権利はない筈です!!』
 どこから聞こえてくるかも判らない声に向かって、仰いでミウカは叫んでいる。彼女の目には姉の姿が思い描かれているのだろうか。
「待てよ!勝手に決めつけんなっ」
 割り込んだ莉哉を振り返るミウカの顔は、泣きそうなほど歪んでいた。
『ならば聞くが、総てを棄てることが出来るのか!?この世界の為に、己を差し出せるというのか!?』
 何故、そうまでしてラスタールを救う方法を知りたいというのか。
 真っ直ぐに突き刺さるミウカの視線。逸らすことができない。彼女の想いは直線で莉哉の心を突き刺した。
 言葉を続けられなくなった莉哉の代わりに、スラの声が二人に響く。
 ――ミウカ…、リイヤ様には自身の運命を決める権利があるわ。正しく路を知り、決断するのは彼がするべきことなの。
『ですがっ…』
 ――彼の運命は、彼のものでしょう。
 ミウカは責任を感じている。それが辛かった。重責を少しでも軽くしたかった。
「ミウカ、頼むよ。責任は感じないでほしい」
『そうでは…っ』
「ないとは言い切れないだろ?俺、それが一番きついよ」
『リイヤ…』
 光の加減で翠色に見える双眸は柔和に細められた。
「聞かせてよ。俺には知る権利がある」


[短編掲載中]