広く果てなく広がっていた波紋の波は感応して集結していく。

 還れなくてもいい。
 逢えなくなってもいい。…できるなら、この世界に居場所を見つけ傍にいたかったけれど、彼女の笑顔を護れるのなら、それでいい。
 ――それが『波紋を投げ掛ける者』の下した決断だった。


 争う二体のゲリューオン。一体は完全体になるべく呑み込もうとして。一体は内なる意識を取り戻そうとして。双方の攻防は激しさを増していく。
 漆黒の骨張った翼を広げ、地を離れ、滞空で繰り広げられる闘い。地上にいる者は茫然として仰ぎ、見守るしかなかった。被害が及ばぬようにと距離を保っていることに、護られているのだと気づかずに。
 ミウカは今だ抵抗していた。完全に魔に呑まれてはハルを取り戻せなくなる。もう一体に残るハルの意識が消滅しないうちに取り戻さなくては。――そして、『無』へと還るのだ。
 ミウカの呼び掛けに呼び起こされたハルの意識は、弱いながらも内から抵抗していた。赤い筈のゲリューオンの瞳孔が赤銅色になっている。
 少女は焦っていた。莉哉の下した結論を実行させない為に。
 早く…!早くっ…ハルを取り戻さなければ…!
 ミウカの焦燥を嘲笑うかのように、変化は着々と進んでいた。今や漆黒に染めきられ、肢体の巨大化は始まっている。二本足で立てなくなり、口は裂け牙が鋭く生える。ミウカの意識も奥へと追い遣られていく。

 もどかしさに【保護壁】を叩き続けているタキは、悔しさに握り締めた掌に血が滲んでいるのも、気づいていなかった。強く紡がれ続ける【保護壁】…彼女の想いの強さ。失われつつある意識にあって、尚も護り続けようとする。
 ミウカの言うことは理解出来る。
 嫡男亡き後、この闘いの終結が訪れた後、ナラダを背負っていくのはタキの役目となる。生命を落とすわけにはいかない。
 だからといって、感情はそれを認めるわけにはいかなかった。
 彼女が己を犠牲にしようとしているのが、腹立たしかった。いつでもそうだった。彼女はいつも、周りの為に生きてきた。己の為に生きるということを知らずに。――知ろうともせずに。
 だからせめて、自分は彼女の為に生きたいと願ってきたのに。
「それさえも許されないというのか…!ミュウ!」

 突然、【保護壁】が揺らいだ。
 赤銅の瞳孔――ハルの意識を僅かに残す――の魔獣が前足をその頂上に叩きつけた。動揺が内部を駆け巡る。
「静まれっ!落ち着くんだ!!」
 タキの指示が飛ぶ。その間にも立て続けに振動は落ちてきた。
 今や真紅色の瞳孔を持つ魔獣へと変化したミウカの精神力を削ぐことを、赤銅の魔獣は目的と定めた。魔の力を糧に、それまでと比べ物にならぬほど頑強に作られた壁。
 護るべき対象を失った時、彼女は精神を手放すだろう。
 真紅の双眸が、吼え哮る。牙を剥き出しに噛み付きかかり、ハルの前足に殴られ砂地へと叩きつけられた。巨大な砂塵を巻き上げ、数秒間、視界は砂に閉ざされた。
 ミウカの牙が右前足を捉える。肉が裂け、血飛沫が飛び散り、互いの漆黒を濡らす。
 ハルは悲鳴と共に牙を足に食い込ませたまま前足を振り上げた。その声はおよそ人間のものとは似ても似つかぬもので。
 牙が深くハルを傷つける。それでも離すわけにいかなかった。壁を狙ったのはハルの意思ではない。魔獣の動きを少しも制御出来なくなっている。ハルの生命を止める覚悟を決める時なのだ。
 ――せめて一緒に『無』へと還りたいと願うは、錯誤でしかなかった。
 ごめんな、リイヤ。最後まで思い通りにはさせてやれない。そんな役目を、リイヤは背負うべきではないんだ。
 人語は無くなっていた。だが強い想いがあればそれは相手に通じる筈だった。姿形を失っても、言葉を失っても。
 壁を隔てて、二人の瞳がかち合った。莉哉にはミウカが微笑んだように見えた瞬間だった。
 自分自身に誓った誓いを貫かせてもらう。…必ず、護る。

 莉哉の口が少女の名を呼ぶ直前、ハルの牙がミウカの首に喰い込んだ。悲鳴が壁を揺らした。
 天をも濡らさんばかりの血が舞い上がる。雨となり壁に降り注ぐ。真っ赤な水が【保護壁】を流れた。ミウカの前足が目の前の胴体を、顔を、前足を蹴る。何度も、何度も、力の限り。その反動に怯まず牙は喰い込んでいく。
 やがてミウカの力は弱まっていった。蹴り付ける間隔が徐々に広がって、動かなくなった。前足はだらりと垂れ、首を噛まれていることで頭と肢体が引力に引っ張られる格好となった。
 【保護壁】は、空気に溶けるように拡散した。
 かつてハルであったゲリューオンはミウカを放り投げ、保護を無くした群衆へ視線を移す。巨悪に細められた瞳孔が狙いをつける。莉哉を見据える。
 魔獣の向こう側へ、地へと落ちていく片割れのゲリューオン。固く閉ざされている筈の瞳が、開かれた。
 幻覚ではなかった。確かにそこにいた皆がそれを見た。鮮やかな真紅の瞳を。誰もが知っている、闘う姿を連想させる瞳。
 ミウカであった魔獣は倒れず地を蹴り、片割れを殴り倒すと押さえ込む。力は互角。噛み付き皮膚を喰い破り、爪で引き裂かれようとも、後退しなかった。
 群集の誰もが激しい闘いを目の前に、その場に縫い付けられる。が、いち早く戻ったラコスが声を張り上げた。
「攻撃だ!怯むな!」
「待て!駄目だ!!」
 ラコスの号令にすかさず反応した自警隊の矢が、無数に降りかかる。タキの制止の声など昂ぶった戦士の耳には入らなかった。
 ここで【呪いの双子】を断ち切らなければ、このラスタールを救う路はないのだ。根強く残る思い詰めた風説が、人々を掻き立てた。


[短編掲載中]