矢を受け、牙を受け、激しく抵抗し、攻撃に転じる魔獣。ハルを呑み込んだそれに、更なる攻撃をミウカは加えた。
 やがて、赤銅を持つ魔獣は抵抗しなくなった。瀕死状態まで追い込んだのは紛れもなく、真紅の瞳。戦慄き、慟哭のごとき咆哮を天に向かって投げ付けた。魔の化身に涙はない、だがその声はミウカの心の叫び。――嘆きだった。
 自身の手で導いた結果とはいえ、精神が弱体化してしまうのは至当で。
 内部で拮抗状態を保ってきたものが、僅かに魔へと優勢になった。
 対抗可能なまでの制止をミウカはすぐに立て直すことが出来なかった。ミウカの精神をそこにあるままに、群集へと飛躍する。ただ一点へと。完全体への過程を邪魔する、唯一の存在へと。
 標的と定められた莉哉に、実地経験はない。鍛錬を続け、剣の扱いに慣れていても、総ては経験が物語る。しかし躯は本能に従い、咄嗟に抜剣していた。
 向かってくる漆黒の巨体に、ミウカの意識は見えない。それでも己の手に握られる剣を放棄してしまいたかった。彼女であるモノを、傷付けたくなかったから。
 だが動きは早く、彼の手が無意識に構えたのと同時に魔獣は到達した。
 手に、感触が落ちる。
 《透察眼》が莉哉に見せた悲しい過去の感触と同じだった。けれど今は、それは《透察眼》によるものではなく、現実にあるもので。
 着地に失敗したゲリューオンは背中から落ちた。余韻を残し大きく振られた長い尾が、その軌跡にいた莉哉へと向かう。
 呆然と立ち尽くしてしまった莉哉は退路をとれず、防御の体勢をとるのが精一杯だった。正面に迫り来る鞭のようにしなる尾を見つめるしかなく、
「リイヤ殿!」
 影が動き、莉哉に衝突する。躯が宙を舞い、どん、という衝撃が空を舞っている間にあった。開かれた瞳にゲリューオンの尾が映る。ギリギリのところで頭の上を通過し、風がピシャリと頬を打った。
 途端に砂地へと突っ込み、顔半分くらいまで埋まった。首を持ち上げ、自分を救い出した影を確認する。
「ラコス!?」
 莉哉に覆い被さり、ラコスはぐったりとしていた。あの衝撃はラコスがまともに尾をくらったものだったのだ。背中が燻ぶり、瘴霧がたゆたう。
「ご…無事、です…か?」
「誰か!彼を安全な場所に!」
 声を張り上げている間にも、ゲリューオンは立ち上がりつつあった。怪我をし動けない者は、そこここにいる。余裕などどこにも存在しない。
 目の前の魔獣を倒さない限り。
 対峙するタキは目の奥が熱くなるのを必死に飲み下した。かつてミウカであった魔獣は確かに莉哉を狙っていた。彼女が失われたのであれば【あれ】はもう、死を与えるべき対象でしかない。
 今こそ、己の心に決断すべきなのだ。
 口を強く引き結び、剣を握り直した。
 風を呼び寄せ、味方にし、駆け出していく銀色の少年を、莉哉は止めることが出来なかった。
 彼の背中は、泣いていた。
 あと少し、というところで、砂丘の向こう側から一陣の風が吹き抜けた。奇妙な熱を帯びたそれ。実際に経験したことがある者はいない。何故なら、それを経験するということは、死を意味するのだから。
 漆黒の魔獣も反応する。群集と同じ方向を見遣り、異様な沈黙が落ちた。
 碧空に白い靄のようなものが見えた。それは真っ直ぐに近づいてきて、速度は増す一方で。そこにある何もかもを切り刻み飲み込む、砂漠で畏れられる現象。
「砂嵐だ!」
 誰かが叫び、恐怖が伝播した。
 逃げようとする行為など、愚かなことだった。みるみる濃く勢いを増す砂嵐は目前に迫っている。
 しゃがみ込み頭を抱える者、不可能と判っていても逃げようとする者、ただ呆然と立ち尽くす者。一様に見つめた白い嵐。迫りくるそれに誰もが覚悟と諦めをつけた時、影がよぎった。
 人間の大きさでは到底有り得ない、巨大な黒い影。垣間見えたのは何度となく目にした、鮮やかな真紅。
 耳障りな切裂音が連続した。無数の刃と化した砂嵐は無情に、絶え間なく、漆黒の背中を斬り付け、大きく広げた翼を裂いていく。その度に血が飛び、人々の顔に掛かった。だが魔獣は微動だにしなかった。自ら壁となり、その身を切り裂かれても盾となる。
 食い縛る牙の隙間から、苦痛の呻きが漏れ落ちた。護られ見上げる人々の顔が複雑に歪む。
 砂嵐の終結は決まって一際大きな刃だと言い伝えられてきた。それを避けることは絶対に不可能だと。逆にそこまで遣り過ごせれば、この状況は打破可能ということ。
 そしてそれは、訪れた。
 背後に姿を認識した時にはもう迫っていて、対処出来る者など存在しなかった。これまでかと身を縮め一箇所に小さく集結した人々。ぎゅっと目蓋を閉じ、うずくまる。自分達の躯に覆い被さる陰に護られ――
 衝突音がした。鈍く重い音。裂音はパタと止んだ。直後、バタバタと滴り落ちる音がした。漆黒の影――全身から鮮血が滝となり砂を染めていく。

 その場にいた数多の瞳が見たものは、自身の手であり足であり、周りに自分同様うずくまる群集。そして、依然その上に伸びている影を見上げた。
 影は一部分、欠けていた。
 魔獣の一番近い所にいた二人――莉哉とタキは目を見開き硬直していた。離れた所で発生した落下音にはっと意識を戻し、少女の名を呼ぶ。
 耐えきった魔獣はぐらりと傾き、砂煙を巻き上げ地に落ちた。

 前足を付け根から失って。――少女の意識は渦巻き、彼方へと分散する。


[短編掲載中]