満天の星空。清涼な空気。とうとうと流れる天の河。
 この時期特有の、春の到来を感じさせる風も、山奥の河原では皆無に等しい。まだまだ肌寒い。
「懐かしいな、ほんと」
 うーん、と伸びた長身の影は、伸ばした腕もそのままに夜空を振り仰いだ。漆黒の髪が月明かりに映える。端整な顔はどこまでも真摯な色合いを深く刻み、男は天を見つめた。
 かつて高校時代に所属していた天文学部の合宿所近くにある、川のほとりに一人佇んでいた。
これまでの生活、これからの生活を考え耽る。無の状態で思考に没頭できる時間がほしくて、ここを選んだ。
 晴天であれば星に抱かれる錯覚を起こしてしまいそうになるくらい、際限なき天体の夜空が展開する。まさに今夜はそんな星空だった。
 大きな一枚岩の上に寝転がり、頭上高く広がる天に視線を送る。と、視界の端にキラリと光が飛び込んできた。首をよじってそちらを見遣る。
 ほんの一瞬の煌きで、見間違えかとしばらく闇を見つめていた。
 数秒後、再び光る。強い光彩だ。
 のそり、と上半身を起こして観察した。光は弱まることなく、不定期な間隔で光った。その矛先は天でも余所でもなく、彼に向けられていた。
 呼ばれているような錯覚に陥る。
 不思議と、恐怖や不審感は無かった。
 元来の気質であれば近づこうなどとは考えもしないのだが、岩から降りると真っ直ぐに光源へと足を向けた。
 木々が連なる中から発せられる光は、どれだけ近づこうとも目が眩むということはなかった。ただ、彼との距離が縮まるにつれ、間隔が広くなり、森へと踏み入れる時には、ぼんやりとした明かりが残されただけだった。
 その仄明るさに、浮かび上がっていた建造物に、呆然と立ち尽くし、見上げた。
 老朽の古跡が、古い森と渾然一体となって、姿を現していた。
「な…んだ、これ…」
 己の目を疑う。いつの間にか周囲には靄がかかり、独特の雰囲気を纏う。剥がれ落ちた壁。外れかかった扉。どう見ても造られて数年という代物ではない。
 何度も訪れている場所だ。絶対に無かったと断言できる。単純に、見えなかったというほど奥地でもない。むしろ林の入口だ。
 ずれた扉の隙間の奥に、闇が広がっていた。風がそこから流れ出ている。
 ふわりと優しい花の香りがした。
 進むことも後退さることもせず動けずにいると、突然、古跡全体が目も眩む光に包まれ、顔の前に手をかざし目を細めた。
 奇妙な感覚に包まれる。そして膨大な量の映像が、直接彼の頭に流れ込んできた。
 強い衝撃とあたたかな精神と。
 それらが唐突にぷつりと途切れ、光は拡散した。古跡と共に。
 目前には薄闇を携えた木々。冷風がそっと頬を撫でた。
 なんだったんだ、今の。
 建物の影は片鱗も残っていない。――だが、代わりに残されていたものがあった。

 夜に染められて尚、美しく輝く。伏せられた目蓋を縁取る長い睫毛の影が、滑らかな白い頬に落ちていた。細い髪が風に揺られ、静かに呼気を奏でている。――少女が横たわっていた。
 それは確かに、今しがた、彼が見た映像の中に動いていた少女で。
 異なるのは、彼女が纏う色。夜闇の所為ではなかった。
 真っ直ぐな長い髪。強い光を宿す双眸。――そのどれもが鮮やかな【赤銅色】だった。


[短編掲載中]