強く、強く、願い続ければ、想いは届くものなのだろうか。
 伝えられなかった心の欠片を、届けたい――


 距離も時間も離れる一方なのに、濃く深くなっていく。
 心を灼きつける感情の名を、何と呼ぶのか。その答えに気づいていながら、気づかないフリをしていた。
 認めてしまえば、留めきれないことを知っていたから。
 そうなってしまえば、心に溜まる想いが、決壊してしまうことを知っていたから。

 だってもう、逢うことすら叶わない…――


◇◇◇


 春が近づいていた。
 あんなにも寒々と身を斬るような空気が、日中だけでも陽射しにあたたまるようになってきた。季節は確実に流れていく。
 昼休み時間帯の陽射しにまどろみ、校内の中庭にあたる草地に、素路莉哉は寝転がっていた。上着で顔を覆って、太陽の光を遮断している。闇に身を委ね、睡魔が忍び寄るのを受け入れようとしていた。
 不意に、胸に軽やかな重みが感じられた。思い出す、感覚。
 流砂に呑まれ、古を見た後にあった――重み。
 閉じた目蓋の裏側に、鮮やかに蘇る赤銅色。どれだけ願っても、逢うことの叶わぬ、色。
 この空は、どこまでも続いているのに、あそこで見た空と同じなのに、彼女の元へは続いていない。
 胸に開いた孔は、広がっていくばかり。この重みは、泡影の幻。
 それでも、縋っていたかった。浸っていたかった。
 夢境に誘われるまま、陽のぬくもりに包まれるまま、午後の授業をさぼってしまおうかと悪魔が囁いた。
「あと五分で休み時間終わんぞ」
 誘惑の囁きを見事にぶち破り降ってきた声。聞き慣れた声だ。眠ってはいなかったが無視を決め込む。と、一気に目蓋越しの視界が光に支配された。
 上着を取り払われて、それまである程度遮断されていた音と光と風が、一斉に落ちてくる。眩しすぎる痛いくらいの光源が惜しみなく注がれた。
 相手が先輩だと判っていて尚、露骨に眉を寄せた。否、相手が彼であるからこそ、大袈裟なくらい不機嫌顔を晒す。
「授業さぼんなよ?弱小部の部長は優等生でなければいけない。部費に響く」
 いたって真面目な顔つきをとってはいるが、半分冗談だ。こんなことくらいで部費に影響があってたまるか、と内心で毒づいた。
 しかも莉哉の在籍する天文部は、部員数だけでいえば団体競技の人気の運動部に並ぶほどだ。あくまで数の話だが。
「前部長さんは、こんな所でなにやってんですか。ってか、どんだけ学校が好きだってゆーんですか」
 自身を覗き込んでくる怜悧な顔に、呆れ顔で皮肉感たっぷりに切り返す。対する前部長の麻居諒はさっくり流して、
「お前のそんな顔見れるのって、俺くらいなもんか?貴重だから撮っておくか」
 携帯電話を取り出しかざす。
「プリントアウトしたら売れるかな、これ」などとふざけている。
 んな訳あるか。との悪態は心の中でだけ呟き、「なに馬鹿なこと言ってんすか」と大きく溜息を吐いて上半身を起こした。
「で?もうすぐ卒業の三年生が、なにしに学校来てるんですか。暇なんですね、諒先輩」
 放っておくといつまでも実のない話に流れていくだけなので、軌道修正を試みる。
「ひっで。わざわざ逢いに来てやったとゆーのに」
「………寒いこと言わないでもらえます?とりあえず、あと五分しかないんで、用があるなら早く言って下さい」
 冷ややかな体制を崩さず言い放つ。勿論本気で口にしているわけではない。相手もそのつもりだ。唯一、本質を見抜いた諒にだからこそ、見せられる素の莉哉だった。
「莉哉」
「はい?」
 諒はつと真摯な目を向けてくる。
「いつまで猫かぶってるつもりだよ。窮屈じゃねーか?」
「…これでも変わったなと驚かれるくらいにはなってますよ」
「そうかぁ?」
 いまいち、というか、全く納得してない顔で首をひねっている。
 確かに、諒以外の前でここまで地を出してはいない。だが「お前変わったなぁ」と半ば感嘆のような声音で、しみじみと言われる機会は確実に増えている。
「ま。微々たる変化は認めてやろう」
「どうでもいいですけど、なんの用です?」
「お前ね…、にべもない言い方すんなよ」
 呆れ顔をした諒も、どことなく楽しそうに笑う。
 三年生もこの時期ともなれば自由登校で、進路が決まってる生徒が学校にくるのは稀有なことだ。諒も卒業後が決まっているのだが、何かと顔を出している。ほとんどが部活の時間帯だ。
「いやな。知り合いが四月から保健教職員になるって聞いててさ、挨拶がてら学校にくるって聞いたから、会えるかなと思って」
「知り合い?」
「天文学部OBだよ。俺が入部した時にはとっくに卒業してたんだけど、合宿に何度か顔出してたことがあってさ」
 ふぅん、とどっちつかずな返答を返す。諒は「興味ないか」と笑った。
「次の合宿はいつの予定だ?」
「まさか…。参加するつもりで?」
「悪いのか?」
「いえ。別に」
「なんだよ」
「……好きだなぁ、と思って」
「悪いのか?」
「誰も、んなこと言ってませんって」
 テンポよい遣り取りは毎度のこと。互いに笑い合うと丁度チャイムが鳴った。
 退院して数ヶ月が過ぎていた。つまり、彼女のいた世界からこちらへと戻ってきて数ヶ月。
 莉哉の中に残されたもの。失われなかった記憶。根付いた感情。
 こちらの世界の時間軸とラスタールのそれは大きく異なっていたらしく、莉哉の発見は諒と別れて数時間後のことだった。
 だから一瞬とはいえ、疑った。――あれは単なる夢だったのではないかと。
 だが、残されていた。
 確実にそれは彼の中で、彼の心に、深く濃く刻まれていた。
 間違いなく存在した。真実だった。現実だった。彼女は生きている。ここではない別の世界で。
 そして、孔が開いた。彼の心に。
 この世界に戻ってきて未だ、埋まっていない。広がってさえいるのかもしれない。
 絶対的な虚無感。
 いつかの諒が言っていた感触を、羨ましいとさえ思ったそれを、莉哉は身をもって知った。
 偽りのない自分を曝け出せない。ここは、彼女のいる世界ではないのだから。彼女の隣ではないのだから。
 それでも進歩した方だと自負している。
 自分の心に、素直になれるようになった。本音に従順な表情を出せるようになった。

 何よりも、大切な感情の名を、知ることが出来たのだ。


[短編掲載中]