チャイムが鳴ってから教室に向かったところで間に合う筈もなく、一応走る格好をとってみても全力疾走はやめにしておいた。
 こんな陽気をあっさり捨てて、教室という箱に入ってしまうのが何となく惜しく感じてしまう。
 そんな手前勝手な屁理屈をつけて、たらたらと走っていたら、角を曲がったところでばったり担任と鉢合わせした。
「なんだ、素路。急げ」
「先生こそ、なにのんびり歩いてんすか」
「口ごたえすんな。馬鹿者」
 並んで歩調を合わせていたら出席簿で頭を叩かれた。
 莉哉のクラス担任は学校内でも人気のある方に入る。くだけた性格のせいだろう。怒ると厳しいことも遠慮なく言うのだが、的を射っているのでぐうの音も出ない。
「先生はどっち?」
 莉哉は行き先を問い掛けながら、指先を持ち上げて四方八方に泳がした。出席簿の第二打撃が繰り出されようとして防御の体勢をとる。
 突然、目の前の担任も、その後ろに続く廊下も、莉哉の目に映っていた視界の総てが、ぐにゃりと歪んだ。
 なんっ…だ!?
 感覚がおかしい。内部から何かが込み上げ、同時に何かが吸い込まれる。冷感。熱感。痛感。様々な感覚が一遍に押し寄せる。遠ざかる。
 異変に瞠目する担任が近くにいる筈なのに、ひどく遠くにいるように感じた。腕を掴まれている感覚がない。視覚はそれを捕らえているのに。確かにそこにあるのに。
 見下ろした手が、指先が、ぶれた。半透明に、揺れる。
 映像が乱れるように。電球が切れる寸前に最期の力を振り絞るような、ジジジという音が聞こえた。
 ――消える?
 元の世界へ戻る時と同じかと思った。身体が透明化する。
 異常な状況下だと認識しているにも関わらず、精神は凪いでいた。目の奥にかすめた『色』のせいだろうか。今はもう失われたその色は、誰よりも莉哉を安心させる。
 懐かしく鮮明に思い描ける後姿が脳裏に見え、振り返ろうと動いた。
 少女の顔が向く直前に、莉哉の意識が暗転した。

 救いたい。
 その願いはずっと、あの時も、今も、常に変わらなかった。きっとこれからも、変わらない。
 己に能力があるからとか宿命だからとか。そんなのは理由になりはしない。ただあるのは強い気持ちだけ。無くならない、想いだけ。

 逢いたいと、幾度となく願う。


◇◇◇


「あとは…忘れてるもんないか?」
 両手一杯に紙袋をひっさげ、香椎逸は少々疲弊気味の顔つきで数歩手前を歩く背中に問い掛けた。
 携帯電話のメモ帳を開いた状態で、そこに入力していたリストと睨めっこして、ぶつぶつ呟きながら考え込んでいた少女は、振り返り逸を見上げる。
 頭二つ分は高い位置にある逸を見るには首が痛くなる角度となる。短時間でも痛感が襲ってくるので一応目線を合わせると、短く「頼まれてないけど、Tシャツ買っていってあげようよ」と応じた。すぐさま首の位置を戻す。
「必要か?」
「病院の中って結構暑くない?いくらあっても困らないし、女の子なんだからさ。毎度同じじゃね」
「そんなもんか?」
 心底判らないといった口調だ。
「逸兄には無縁の心理かな」
「やかましい。つか、お前からそんな台詞が出てくること自体、大革命だな」
「逸兄こそ、余計な一言は謹んでよね」
 再び振り仰ぎつつ、ひと睨みするも、少女の可愛らしい顔つきではたいした迫力にはなっていなかった。逸は軽く流して視線を他へと巡らせる。
「で?どの店にすんだ?」
「んー」
 なんだかんだ言って、ちゃんと応じてくれることに少女は内心で微笑んだ。逸に見つかると「笑うな」と怒られてしまうので、表情には出さないよう努める。
「この前行ったとこは?あそこの服、ルイ気に入ってたし」
「そうなのか?どっちだった?」
「場所も覚えてないの?こんな調子だから、ルイが呆れるのも無理ないね」
「いちいちうるさい。さっさと済ませてどっかで休憩するぞ。俺は疲れた」
「だから全部持つことないって言ったのに。貸して?持つよ」
 言わんこっちゃないとばかりに逸の手に握られた紙袋に手を伸ばすも、すいとかわされ空ぶる。
「いい。とっとと行け」
 紙袋を持ったまま追い払う仕草をとる。
「ったく。意地っぱり」
 逸の給料が出てすぐの週末。入院している逸の妹――ルイの要望に応えるべく、街へ繰り出していた。購入物が増えていくのに逸は総て自分が持つと言って、頑ななまでに同行者である少女には荷物を持たせない。
 頑固すぎて呆れてしまう時もあるが、逸は口の悪い気遣い魔だった。それをルイと一緒になって言うと、これまた怒られてしまうので口にはしないようにしている。
 絵に描いたような眉目秀麗である逸が、睨みを利かせると結構な迫力だった。少女は怯む様な小心の持ち主ではなかったけれど。
「お前ね…」
 逸の小突きが飛んでくる前に数歩先に行く。少女の背が完全に向けられると、逸はふと口元を緩めた。
 数十秒後。
 どちらかと言うと小さい体躯の少女が、人ごみに悪戦苦闘しながら前を歩いていたのだが、何かを聞きつけ顔を横に向け、ピタリと止まった。ビルとビルの隙間に視線を送っている。
 嫌な予感を抱き、流れを巧くすり抜け、少女の元に辿り着く。
「どうした」
 言いつつ同じ方向を向いて、答えを聞く前に状況を把握した。
「あれ、困ってるよね?」
 じっと視線を据え置いたまま口を開く。若干の怒気を含む、不快感を示した声音だった。
「…またか。ほっとけ。警察呼んどけばいい」
 携帯電話を取り出し、少女の顔の前にぶら下げる。
「それ、冷たくない?」
 ようやと現場から視線を剥がして少女は逸を睨めつける。
「お前はなんにでも首を突っ込み過ぎだ」
 これで何度目か、と思い返すも、数えるのも忘れるくらいの回数になっていることに嘲笑が漏れた。知り合って数ヶ月、見て見ぬふりを決め込めないのは彼女の性分だと、充分認識させられてはいるのだが。
 こう毎回だとな…。
 紙袋をゴサッと華奢な背中にぶつけて促す。少女は不満顔で微動だにしない。
「おい」
 じっと隙間を見つめていた少女は、あ、と小さく洩らした。数人の男に連れ込まれ、逃げ出そうとしているブレザーを着た少女の顔が確認できた時だった。
「逸兄はそこにいていいから、これ持ってて!」
 返事も待たずに鞄を押し付けると、早々にビルの隙間へと入っていった。
 逸は後姿を見送り、深く溜息を吐いた。


[短編掲載中]