俺は、恋をしている。
 声にしたり記してみたりは到底できない一行。照れ臭いの頂点を極めるくらいの位置にある言葉。
 けれど日増し募るだけの想いを、どうしたら君に伝えられるだろうか。
 周囲にはばればれの気持ちも、肝心の君には伝わってなく。加えて、誰の口からも「諦めろ」と助言を呈される相手を、好きになってしまった。周りの言うことは尤もだ。自我意識とも相違なし。
 脈が無いから、直言しても異なる意にとられるから、そんなことだけが理由ではなくて。
 高嶺の花だから。それもある。あるが、それ以上に、彼女が信頼し、彼女を信頼し、傍にいる人間がいる。兄のようなあたたかさで、友人のような明るさで。
 傍目からみて、ひどく羨ましい位置関係。
 彼もまた、自分と同じ想いを彼女に抱いていて、なのに彼女はそれさえも気づいていない。
 人に想われることに、慣れていないかのように。
 同じクラスの隣の席。初めは外貌の特別な彼女の隣でラッキーだなと思う程度だった。
 純真で無垢、真っ直ぐで真正直。時間を経て、接触していくうちに知っていく中身。
 ただのクラスメイトの認識から芽が出そうで、違うのだと自身を踏み止まらせていた時、部の先輩である成澤から妙な提案があった。放課後の数時間だけでも彼女と出掛けられるならと、軽い気持ちでのった仕掛人。快諾した時点では、平気だと思っていた。
 楽しめればいいか、程度だったのに。
 予想外に、急速に、隠れていた気持ちが溢れ出し、止められなくなってしまった。

 俺は、恋をしている。――不毛と呼べる、恋を。

 無意識に送った視線の先に、彼女の机がある。主のいなくなった机。終礼と同時に教室を駆け出ていった。
 放課後の予定を知っていて、巧くやれば自分が時間を共有できたのに、つくづく己は要領を得ない性格だ。と空っぽの机を見つめて、深く溜息を吐いた。
 未練たらしく教室にいても進展があるわけでもなく、支度を終えて教室を後にした。
 話題があがった時点で挙手すべきだったな。
 まさに後悔先に立たず。
 折角、俺に意見を求めてくれたのに…。
 助言が邪魔をして、どうにも積極的になりきれない自分が腹立たしい。
 校舎を出、また小さく溜息を吐いたところで、校門に立つ数名を見つけた。その中に、ついさっきまで思考を占領していた人物もいる。鼓動が一つ、騒いだ。
 彼女の隣にいるのは、本日これからの時間の共有権を軽々取得した者。しかも彼女からの依頼で、だ。むくむくと起き出す嫉妬を押し込め、輪へと近づいていく。
 同校の生徒が四人と、向かい合うのは女子高の制服を着た三人だった。真ん中に立つ子はうつむき気味で、後ろに立つ二人にせっつかれている。一目見るだけで状況が明確に判った。
 相変わらず、もててんな。
 彼女達の標的が素路莉哉であることは間違いがなかった。彼のクラスメイトで友人の井塚と成澤も場にいて、把握していないのは一人だけのようで。
 けれど。
 彼女を見ていて、思うことがある。彼女はとても、人の感情には敏感だ。よくも悪くも、アンテナは常に張り巡らせている。意識しているというよりは、身についてしまっているもののようだった。
 それが今も発動しているらしく、状況を飲み込めなくても空気を読んで、素路莉哉の横の位置から一歩下がっている。
 ぽつぽつと交わしている言葉たちが、近づくことによって拾えるようになる。まだ本題には入っていなかった。なかなか言い出せずにもぞもぞしている姿に、少し苛立つ。自分が重なって見えてしまうからだ。
 息を止め、ゆっくりと吐き出す。意を決し、力強く真っ直ぐに歩を進めた。
「貴奈津」
 一斉に集まった目線をものともせず、一人を見つめる。くるりと振り返った少女は、僅かに戸惑いを浮かべていた。素路莉哉に対面する子達の感情にどう対応すべきか、逡巡している風にも見える。
「森原、今帰りか?」
 楽しむことには最大限の努力を惜しまない部の先輩が先に口を開く。
「成澤先輩、お疲れさまです」
 会釈し、更に近づく。これで輪に入る入口ができた。
 これはチャンスかもしれない。
 腹底で思うことなどおくびにも出さず、素知らぬ顔を作った。
「こんなところに集まって、なにしてんすか」
 まんまと想い人――貴奈津ミウカの横位置を確保した森原は、突き刺さる視線を撥ね付け、成澤に話し掛けた。わざとらしくならないよう細心の注意を払いつつ、今思い至ったように「ああ」と声を零す。
「この前の、合コンの相手ですか」
 あくまで成澤に向けて投げ掛けてはいるが、ミウカにも聞こえるように明言した。合コン、を軽く強調して。
 制止せねばと焦りが見えたのは井塚と莉哉だけ。相変わらずの飄々さで、成澤は興を見つけた顔さえ見せた。
「正解!」楽しげなのは成澤だけだ。
「合コン?――あ、前に森原くんが教えてくれたやつ?」少女の合点顔が向けられた。
 正解、と成澤の口調を真似て返事をした森原に被せて、井塚が割り込んだ。
「ミウカちゃん知ってんだ?」
 くるっと森原から井塚へ視線を移し、コクリと頷く。
「恋人を作りたい人達の集まりなんですよね?」
 井塚を見、その斜め後ろにいた莉哉を見る。普段は平坦を纏っている彼でも、流石にまずい話題となると焦りが出るらしい。同じ想いを持つ者として気の毒に思う反面、ザマアミロとも思ってしまう。
 性格悪いか?
「それだけとも限らないんだ。現に莉哉なんかは頭数合わせで強制参加だったわけだし」
 すかさず井塚のフォロー。持つべきものは空気の読める友人、といったところか。物言いたげ顔でいる莉哉は少女を見つめるだけ。下手に慌てたところを見せたくないのだろう。気持ちは存分に判るが。
「そうなんですか。…彼女がほしかったわけじゃないんだ?」後半は莉哉に向けていた。
 何気に問い掛ける少女は、なんの含みも隠れた意図もない。本気で、何気に問い掛けているだけなのだ。
 それはつまり、素路莉哉の気持ちさえ、全く気づいていないということで。
 不憫だ。――井塚は心で合掌する。
 憐れだな。――流石の成澤も同情を覚える。
 同類か。――森原は自分と重ねて落胆する。
「いらないよ。…じゃなくて、いや、ほしいことはほしいけどな」
 頭脳明晰、容姿端麗、沈着冷静。素路莉哉に冠せられた形容詞。
 三つ目が崩れる時、傍には貴奈津ミウカの姿がある。彼を揺さぶれるのは、この少女だけ。まさに今がその時で。
 少女は見慣れているのか、全く頓着しないのか、慌てる様をしばし眺め、小首を傾げた後、舵を戻した。
「話が、あるんですよね?」
 少女の前に立ちはだかる男達の横からひょいと顔を出し、他校の生徒の方へと話し掛ける。唐突にふられて意識を戻し、彼女達は三人揃って頷いた。
「だったら莉哉。聞いてあげて」
「え、」
「莉哉に話があって来てるんだろ?買物なら一人で平気だから」
 けど、と反論しようとする素路莉哉を押し止めたのは、井塚だった。「俺、付き合おっか?時間ならあるし」
「えー。まじか。俺これから用事あんだよー」成澤は悔しがる。
「誰もお前に付き合えとは言ってねーよ」
 呆れて溜息を吐かれても、成澤は地団太を踏みそうな悔しがり方をした。これも井塚なりのフォローなのだと、ミウカの性格を知る者であれば判ることだった。
 尋ねてきた者を邪険にすることに、人との繋がりを粗末にすることに、少女は嫌悪する。話も聞かずに立ち去ろうとする人間を、受け入れるタイプではない。
「俺でよければ。ほんと、暇だからさ」
 成澤を押し退け井塚は言う。
「え、と。皆さん知り合い、なわけですよね。だったら一緒に行ってはどうですか?あたしなら本当に、一人で平気ですから」
「俺が付き合うよ」森原がすかさず割って入った。チャンス到来だ。「あれだろ?プレゼント買うってやつ。教えた店で判りづらいとこにあるのあるしさ」
「え。でも、」
 外見に反して、ミウカは意外と頑固者だ。譲れないことには折れようとはしない。その内容は、自身にのみ関するという我儘を通すわけではなく、やっぱり対人に関する事柄が多い。
 優先順位を、自分自身は底辺に置いている節がある。
「ほんと、気にすんな。迷子になられても後味悪いしさ。店教えたの俺なんだから、一緒に行った方がスムーズにいくだろ?」
 同居人、というか、少女が世話になっているイトコの誕生日を翌日に控え、ミウカはプレゼントを買いに行く。彼の妹と散々悩んだ挙句、ジッポライターに決定した。最近失くしたらしい。が、煙草を吸うわけではないミウカや彼の妹に販売店の検討がつかず、森原に相談した。という経緯が存在する。
 クラスメイトで隣の席、の特典。普段からの努力が報われた瞬間だった。
 数瞬迷い、頷こうと動くように見えた。が、遮られた。
「待てって。話進めんな」
 空気をピシリと切っておいて、目顔でこちら側全員に静止を促す。逆らえない圧を醸し出していて、誰もが閉口した。
 莉哉は背後に立つ他校生に向き直る。
「話ならここで聞くよ。用件はメールで送ってきたことと同じ?」
「……うん。あの、ごめんね。迷惑かもしれないけど、やっぱりちゃんと顔見て言いたくて…」
「申し訳ないけど、何度言われても無理なんだ。気持ちには応えられない」
 丁寧だが、隙のない響きを含んでいた。揺ぎ無い答え。
 相手は詰まり、続ける言葉を失っていた。
 追い討ちをかけるように、莉哉は続ける。中途半端な優しさは余計傷付けるだけなのだと、彼は知っている。
「俺には好きな子がいる。だから、ごめん」
 俯いてしまった相手に再度謝り、踵を返す。経緯を見守っていたミウカが莉哉の動向を見つめていた。真剣な眼差しを向けられ、その向こう側で泣き出しそうな子を見、切なげな視線を返した。
 どうにもならない想いは、きっと沢山、色んなところに存在する。――それは誰もが、知っていることなのだけれど。
 莉哉がすっと伸ばした手が、ミウカの頭に柔らかく触れる。進行方向を指し示し、促すときの所作。当初の予定通りに進もうとしていた方向に進路を定めて、莉哉は歩き出す。
 ミウカを連れ立って。
「行こう」
「けど、」
 いつもであれば素直に、促されるままに歩みを揃えるミウカも、流石に他を置き去りにするのは気が引けるらしい。
 手は添えられたままなので半顔で振り返った。茫然と見送る輪から少しずつ離れていく。当の本人にあの場に残る意思がないのなら、外野であるミウカに止める権利はない。
 無視をしたわけではないし、きちんと向き合って返答しているのだから、責めるところは存在しない。
 だけど、と考えてしまうのは、間違いだろうか。前を進む背中を追い掛けながら、ミウカは考えずにはいられなかった。




 歩道には人が溢れかえっていた。
 一歩手前を歩く莉哉から離れないように、まめに振り返る莉哉が心配しないように、ミウカは小走りで後についていく。ある程度流れに沿って進まなければならないので、あまり歩調を緩めることはできなかった。
 前を行く莉哉は自ら盾になり、後続のミウカが少しでも歩き易くなるようにしていた。けれど背の低い少女は人波に埋もれがちで、時折ぶつかる対向者の腕やら鞄やらに負けないようにと、表に出す表情とは裏腹に、悪戦苦闘していた。
 莉哉の背中を追い掛けながら、先ほどの遣り取りがどうしても気になっているのだろう。首を突っ込んでいい範疇外であるが放置も憚られる、と逡巡しているのが判った。
「ほんとに良かったのか。話まだあったんじゃ、」
 少女は少し声を張り上げ、背中にぶつけてきた。振り返った莉哉はミウカとの距離を測り、できる限りで歩調を緩め、少女を見つめた。
「いんだよ。それよか、ミウカは行ったのか?」
「んん?」
 前方不注意では人にぶつかるので、莉哉はいったん前を向いた。棚上げは基本好きではないがこれは例外だ、と勝手な言い分を言い聞かせ、前を向いたまま問う。そこはやはり後ろめたさからか、目が見れない。
「ほら。森原が言ってた…合コン」
「え、なに?聞こえなかっ、――わわわっ」
 前を向かれた上に音量を下げられると喧騒に紛れて少女には届かなかった。身を乗り出し横に並ぼうとした少女の声が唐突に遠ざかる。
 莉哉が即座に振り返った時には、逆方向の波に呑まれて流されていくところだった。かろうじて波間からのぞく手が、位置を示している。
「ミウカ!」
 難なくミウカの元へと辿り着いた莉哉は腕を掴み、巧く摺り抜けて歩道の脇へと誘導した。
「すまない…」
 軽く疲れを覚え、ミウカは大きく息を吐いた。呆れたような慈しむような視線を向けられ、肩を竦める。莉哉はそんな少女から、自身の手に視線を移した。
 手をつなごう。…とか、――言えねぇ…!
 ミウカが人波を巧く歩けないことは知っていた。身体能力が優れていてもそれは努力の上に勝ち得ているものであるし、人ごみが苦手なのは慣れていないからこそで。
 ナラダでは、人の集まるところへは、行かないようにしていただろうから。
 やっぱ人の多い場所を歩くのは駄目だな、などと自分自身に呆れ返っている少女を余所に、悶々と願望と虚勢の狭間で葛藤していた莉哉は、ぱっと顔を上げたミウカへの反応が僅かに遅れた。
「そうだっ」喜色満面。良策を思い付いた時の明るさが対面する。
「ここ、掴んでてもいいかっ?」
 小さな引力と無邪気な笑顔に目を奪われる。
 細い指が、莉哉の袖口を掴んでいた。
「へ?…あ。も、勿論っ」
 咄嗟に、必死に、我を取り戻し首肯する。
 よかった、と安心したように笑う少女に対して、凛とした自分が崩れ去らないよう、懸命に理性を繋ぎ留めていた。


[短編掲載中]