『ルイごめんー。そっこうで帰れなくなった…』
『どしたの?』
『小テストで赤取った。間違ったとこ解き直して今日中に提出しなきゃいけない』
『数学?時間かかりそ?』
『うん、数学。参考書とか見ながらでいいっていうから、たぶんそんなにはかからないと思う。よく判ったね』
『未だに赤点とるの数学じゃない。了解。あたしもう着手してるから、帰ってきたら手伝ってね。頑張って』
『ごめん。頑張る』

 ミウカからの受信メールを最後に、ルイはリビングのテーブルに携帯電話を置いた。
 キッチンの作業机にはすでに物が溢れていて物の置き場は無し。これからケーキを作ろう、と器具やら材料やらを用意していた時に着信があった。
 本日はこの家の主、香椎逸の誕生日である。
 自分のことにはあまり頓着しないのか、単なる面倒臭がりなだけなのか。逸は毎年誕生日を忘れる。自分のだけで、ルイのは忘れたことがない。実は忘れているフリをしているだけなのかと、ルイは疑っていたりもする。
 そんなこんなで、今年はミウカと二人で準備ができるとあって、料理もケーキも総て手作りを計画した。なのに、だ。
 ま、いっか。
 逸は会議で遅くなると連絡が入っていたし、なんなら後からくる莉哉に手伝ってもらおう、などと考える。エプロンをつけ腕まくりした。
「よっし、やりますか」
 気合いを入れ、キッチンへと足を踏み入れた。


 一時間後。
 莉哉は香椎宅のチャイムを鳴らした。ぱたぱたと軽やかな足音の直後、ドアが開けられる。ルイが顔を見せたのと同時に、ふわり、と室内のあたたかさと甘い香りが迎えうつ。
「莉哉さん!いらっしゃい。…て、外雨降ってんの?」
「降り出したばっかだよ。本格的にきそうだ。――お邪魔します」
 どうぞと大きく開けられたドアをくぐり、先に入ってタオルを持ってきてくれるルイを待つ。室内の温度が外気温に染まった莉哉を少しずつ溶かしていった。
「はい、タオル。なんならシャワー入る?ミウちゃんが帰ってくるまで時間あるし」
「そんなに濡れてないから大丈夫。ドライヤーだけ貸してもらえるか」
 ミウカはまだ帰ってないのか?と続けようとして、「了解!」ルイはすでに室内へと消えていった。
「どうぞ」と差し出されたのはバスタオルと服。「やっぱりシャワー使って。その間に制服乾かしちゃうから」
「これ香椎のだろ?」
「遠慮はいらないよ?」
「じゃなくて…」
 逸と莉哉では身長差がある。サイズが合わないだろ、というのも原因の一つなのだが、気持ち的な要因が大きく占めていた。
 莉哉も背の高い方に入るのだが、逸はそれ以上だ。そんなところまでコウキと同等で、影がよぎる度、面白くない心地が湧き起こる。
「部長会議終わんの、早かったんだね」
 莉哉の気持ちを知ってか知らずか、ルイは当人の意見には取り合わずしてシャワーの準備を始めている。子供じみた言い訳など口にしたくなかったので、好意に甘えることにした。
「いつもこんなもんだよ。白熱すんのは予算決めの時期だけだな」
 定例の部長会議は中身のない報告会のようなものだった。昔からそういう決まりだからとりあえずやってます、という風だ。締まりのない会議内容だが、出席率はいい。のちの予算会議に響くからだ。
「それで、ミウカは?」
「ミウちゃん?なんかねー、居残りだって」
「てことは、学校か?」
「そう。そんなに遅くはならないって言ってた…て、莉哉さん?」
 ユーティリティールームへと、ルイの後に続いていた莉哉は、唐突に進路変更した。リビングのカーテンを開け、窓にへばりつく。
 雨は量を増やし、遠くで空が唸っていた。
 早く帰ると聞いていたし、よもや補習の類に引っ掛かっているとは思ってもみなかった。以前はよくあったことでも、最近ではぎりぎりとはいえ、赤を免れていると聞いていた。
 学校を出る時確認すべきだった。しつこいと思われるのを避けて、確認を怠った自分に苛立つ。
『まだ学校か?かかりそうか?』
 余計なことを考えるのは止めにして、すぐさまメールを打った。
 数秒と待たないうちに返事がくる。
『あとちょっと』
『迎えに行くか?手伝うよ』
『いい。大丈夫』
 パコンと携帯を閉じて、溜息を吐いた。
「まだ学校にいた?」
 隣に並んだルイも窓の外を見ていた。ほんとに本格的に降り出しちゃったね、と独りごちている。
「まだ居残ってた」
 叩きつける雨を睨み据え、歯噛みした。「…なんだよ、言ってくれればよかったんだ」不満を呟いた。
 そうこうしている間にも天候は益々崩れていく。空の唸りが、光をともなって近づいてきていた。
 この天気に、想起する記憶に、怯えてはいないだろうかと、気が気じゃなくなる。
「莉哉さんが思うより、ミウちゃんは過保護にしなくても大丈夫だよ」
 ぽつりと、けれどしっかりとした語調が向けられた。
「――判ってる、よ。つい過保護がちになってしまうのは、一番に俺が、そうしたくてしてるんだ。……迷惑だ、とか言ってたか?」
 肯定されるのは怖いけれど、本人以外から聞く方が傷は浅くて済む。かもしれない。
 聞きたくて、答えが怖くて、聞けなかったこと。迷惑だと言われてしまえば、自分はどうするだろうか。
 少女は、感情に敏感なくせに、自身に向けられる好意には受け留め方を知らない。免疫がない。
 人の想いを、ひどく大切にする。それ故に、粗末にすることを嫌う。
 優しいから。人を傷付けることを畏れているから。少女はどんなことでも内に押し込めておこうとする。
 人を傷付けるくらいなら、自分が傷付く方を選択する。隠忍する。本心を、隠そうとする。
 だから絶対に、迷惑だとは言わないことを、知っている。
 小さな壁を、常に感じていた。
 自分は頼れるだけの男ではないのだと、暗喩しているのではないかと思う。彼女が自身を曝け出せる相手は、彼以外にはいないのだと。それは自分ではなく、これからも成り得ないことなのだと。
 莉哉は自分に、自信を持てない性分の持ち主で。だからこそ、思考は負へと傾きがちだった。
 ルイからはあっさりと返答が返ってきた。
「ううん、その逆。恐縮してるよ。同時に、すごい感謝もしてる」
「…」
「一緒に住んでるあたしが言うんだから、間違いないってば」
 浮かない莉哉の表情を一掃すべく、ルイはパシンと腕を叩いた。
「信じてあげて。ミウちゃんは本当に、迷惑がってなんかないから」
 大体、そんな子じゃないでしょと頬を膨らますルイは、自分のことのように不満げに言った。
「そう、だな」
 頼られてる確信が持てないのは、ミウカが悪いわけじゃない。自信を持てるほど強く在れていない自分が悪い。
 そうだよな。
 再度心の中で決意を改めた。

 頼られたいなら、頼れる人間になればいい。




 ぽつ、と頬に当たった雫に、森原は空を仰いだ。
 夕方から雲に厚みをつけだした空は、今ではどんよりとした色を濃くしていた。
 本格的にきそうだな。
 多少の雨量であれば部活は続行するのがお決まりだ。少々憂鬱に思いつつ顔の位置を戻す。何気に視界に入った姿に自然と動きが制止した。
 図書室でひどく悩んでいる様子の少女。机上にあるものと睨めっこしている。
 あれか。小テスト解いてんだな。
 数学の授業で前振りなくやらされたテストで見事に赤点を取り、本日中に誤答した問題を全問解いて提出令が下された。全般的に勉強が苦手な彼女が特に苦手としているのが数学だった。森原は唯一、理数系は得意としているので、こっそり回答を見せようか?という申し出を、すっきりと断られた。
 少女は根が真面目だ。逡巡皆無で「それはしちゃいけないでしょ」と返された。
 参考書、教科書、何を見てもいいけれど自力で解けよ、という教師の言を忠実に護ろうとしている。意固地じゃない懸命さが、可愛いと思ってしまう。
 つい手伝ってあげたくなるが、意志は尊重してあげなければいけない。
 かなり苦戦してる感じだな。
 遠目なので表情までは見えないが相当頭を悩ませている様子は窺えた。じっと机を見据えたまま、動かない。その視線の先には、憎らしい敵でもいるかのようだ。
 助けの手を差し伸べたくて、うずうずしてしまう。
「で。おめーはなにをしてんだ?さぼってんなよ」
 唐突に肩に圧し掛かった重み。びくり、と身体を揺らした。
「な、成澤先輩!」
 含蓄顔がすぐ傍にあって、慌てて離れる。「びっくりさせないで下さいよ!」
「おーおー。よくゆーわ。で、見つめちゃってたわけ、ね」
 森原が捕らえていた姿を確認し、成澤は複雑な表情で茶化す。雨粒は先ほどよりも少しずつ、増えてきていた。
「先輩、部活中止にしません?激しく降りそうですよ?」
「三度の飯よりサッカー好き、のお前が珍しい」
 実際、小雨程度で言ったことなど今までない。
 揶揄口調をしてはいたが、森原が言い出した要因を成澤は判っているようだった。
 見込みの無い相手を好きになってしまった者の、それを自覚している者の、切ない片想い。それでも、気持ちは止められない。
「中止でいいですよね?」
「強引だな」
「絶対きますって。風邪ひきたくないですし」
「ま、そうだな。その意見には賛成だ。試合も近いことだしな」
「じゃあ、みんなにも伝えてきます」
 頼むわ、と片手を上げた成澤に背を向け、走り出すかと思われた森原の動きがピタリと静止した。
 対峙する瞳は真摯そのもので。成澤は片眉を持ち上げ促した。
「素路先輩は貴奈津と付き合ってるんですか?本人に聞いても、違うとは言ってましたけど」
「だったら、そうなんじゃねぇか?」
 成澤は曖昧に答える。
「素路先輩は好きですよね?彼女のこと」
 これにも明答せずに、肩を竦めるだけにとどめている。
「莉哉には聞くなよ?禁句だから、それ」


 身の回りの後片付けもそこそこに、森原は急いで図書室へ向かった。
 部室で着替える頃には雨は予想通りに激しく打ちつけるまでになり、他の部も次々と活動を中断していった。遠くで雷の前兆を知らせる低い音が空を揺らしている。
 ドアを開ける前に大きく深呼吸し、何気ない素振りをイメージする。
 軽やかな音を立てて、ドアはスライドした。
「――貴奈津」
 少女は先と大差ない体勢のままで、けれど森原の呼び掛けにパッと顔を上げた。
「あれ?森原くん?」
 普段寄り付くことのない人物の訪問に、浮かんで然るべき疑問符が浮かんでいた。きょとんとしたまま壁の時計を見、小さく驚いていた。おそらく、あっという間に過ぎ去っていた時間の経過に驚いている、といったところだろう。
 集中し過ぎて時間を忘れがちになる性格らしい。
「どこで詰まってんのさ」
 向かいに座り、答案用紙を覗き込む。残すところあと一問らしい。一箇所だけぽっかりと白い。否、よく見ると何度も消したであろう痕が薄っすらと見えた。
 ノートにも雑多多様な数々の数式が細々と記されていた。どれも不正解のものだったけれど。
「ヒント、聞かない?」
「――うー……」
 そこで結構な時間を喰っていたらしく、相当迷っている。すぐさま頷かないあたりが、彼女らしい。
「天気悪くなってきてるぞ。気づいてた?」
「へ?…わ、ほんとだ」
「おそろしいほどの集中力だな」ある意味感心する。
 森原がここに着く前にはもう雨は激しくなっていたし、風も出ていて叩きつけるほどだった。普通であれば充分に聞こえる音だ。
「早くしないと帰れなくなんぞ。教えるよ」
 答案用紙に伸びた手が端を掴み、引き寄せる。ミウカの抵抗はなかった。少し情けない顔をしているくらいだ。
「ここか。これはな…」
 二人から見える形で用紙を置き、説明を開始しようとして、一瞬の眩い光が室内を強烈に照らした。続けて腹底に響く轟音。
 それに混ざって、硬質な軽音がした。ミウカの持っていたシャープペンシルが落ちた音だ。
「貴奈津?」
「ごめん。続けて」
 すっと身を寄せて、答案用紙と向き合うミウカは平然としていて。
 気のせい、か?
 取り落としたのは単純にびっくりしたのだろう。と結論付けた。見る限りでは平常と変わらない。
 じゃあ改めて、と仕切り直しをしたら、再び光と轟音。そして再び、少女の手から滑り落ちた音。
 見事なまでに、雷に呼応していた。
「平気か?」
「うん。平気だよ?急にどうしたの?」
 どうしたの?は、こっちの台詞だと思うんだけどな。
 真っ直ぐに瞳を見つめても、平然そのものだ。けれど、少女の反応は雷を苦手としている、と判断するのが妥当だろう。ほぼ間違いない解釈に思えるのだけれど。
 森原にミウカをからかうつもりは毛頭ない。揶揄したことなど無いし、ミウカがそれを危惧しているとも思えない。
 強がろうとする意図が、森原には理解できなかった。
「ほんと、ひどい天気だね。さっさと片して、早く帰らないと」
 課題へ戻ろうとする。また光って、また呼応した。今度は何も落とさなかったけれど、ペンを持つ手に力が入ったのが見て取れた。
 天気を言い訳に放り出して帰ろうとは言い出さない。身を竦めて怯えても、森原に「解いて」とは言わない。
 平淡に平静に、虚勢を張ろうと苦闘する姿は、誰がどう見ても、少女が苦手としているものが雷だと示している。
 目の前であたふたしている少女はとても愛らしく、心情を思えば同情は拭えないのだが、滅多に見られぬ姿に得した気分さえ湧いてしまう。
「こんな天気なんだし、帰ろう。先生だって大目に見てくれるって。送る」
「あと一問だから、」
 あとに続けようと開いた口は、言葉を発することなく、きつく引き結ばれた。
 一際大きな音が大地も空も震わし、雷光が同時に響く。ペンを投げ出し、耳を塞いで、華奢な身体を更に小さく縮めた。
「たか――」
 名を呼び、伸ばした森原の手は、目標に届かなかった。標的が唐突に失われたからだ。
 少女は戸口に向かって駆け出していた。呟きを残して。
 呟かれた名前。我が耳を疑っている間にも少女は遠ざかっていく。
「貴奈津!」
 一心に、振り返らずに、走っていく少女はドアを開け、廊下へ飛び出していった。雷は間隔を狭め、少女を嘲笑うかの如く鳴り続けている。
 後を追い掛けた森原が目撃したのは、彼が一番に見たくなかった光景で。

 激突されて廊下に倒されたであろう体勢で、そこにしがみついている小さな肢体を愛しそうに見つめる瞳。手が優しく少女の頭を撫でる。
 彼の胸に顔を埋める少女は、必死にしがみついていた。
「素路先輩……」
 森原の零した声は二人には届いていなかった。そこに含まれる感情を飲み下し、静かに踵を返した。
 充分じゃねぇか。心の中で悪態を吐いた。
 素路莉哉はいつも、どこか不安げだと聞いた。傍目から見れば、それと判らないよう彼は隠していたけれど。
 少女との位置関係をみれば、森原には理解し難いことだった。苛立ったこともしばしばだ。
 ただ、同じ想いを、同じ相手に抱く者として、判らなくもない心境でもあった。ライバルで、同胞で。
 クラスメイトとして仲良くしていれば、あわよくば、の期待が無かったわけでもない。諦めろと散々言われようと、そうだよなと同意しようと、片隅では期待していた。
 それが今、完膚なきまでに消滅した。
 充分だろ。
 悔しさは混ざるものの、清々しくもあった。ここまで完全に歴然とした差を突き付けられたら、どうにもできないじゃないか。


 充分なだけの絆が、そこにある。誰にも負けない、絆が。




[短編掲載中]