春。
 三年生が卒業し、新入生が入学する季節。浮き足立つこの時期に、相も変わらず端的に時を遣り過ごす者がいる。
 常汪高校の二年から三年への進級はクラス替えが無く、担任もそのままに持ち上がりだった。つまり、一年から二年に上がる時には進路を定め、それぞれ文系と理系と就職組とに分かれる。今年は留年する者もなかった。
 校舎の階数が一つ上がり、それに伴って席替えがあった。抽選で窓側の後ろから三番目になった莉哉は、窓から身を乗り出して、校門から玄関へと歩く新入生の品評に余念がない友人達を斜に見据えた。
 ふと、今年卒業していった諒もこんな風にやっていたのだろうかと思い、容易に姿が目に浮んで、思わず吹き出しそうになるのを堪える。
 莉哉が天文部に所属するきっかけとなったのは、諒の勧誘だった。
 入部してしばらくしてからぶっちゃけられた話なのだが、「お前はエサだ」と言われた。莉哉の容姿に釣られる入部者を見込んだのだ、と。
 勝手極まりない理由に立腹を通り越して、呆れた。そして内心、盛大に笑ったものだ。
「なんだ、莉哉。可愛い子発見か?」
「は?」
 思い返して笑ってしまったのをそっちの方向にとった成澤明良――通称ナル――は嬉々として「どこだっ。教えろ!」と視線を巡らせる。
「違うわ。あほ」
 一年の時から同クラスである彼は、どちらかというと感情の起伏の少ない莉哉と、何故かつるみたがる。彼曰く「波長が合うと思わねーか?」らしい。
 ちなみに莉哉はその波長とやらを感じたことは一度もない。
 真反対ともいえる性格なのだが、一緒にいても窮屈さを感じないのは、つまりはそういうことなのか、と思うことはあるけれど、口が裂けても言いたくない。
「冷たいお言葉で」
 成澤と一緒になって外を眺めていた井塚伸は一旦莉哉に視線を置いた。
 井塚は二年の時からの友人で、似たり寄ったりの明るさを持つ成澤と即効意気投合、そのままの流れで莉哉ともつるむようになった。
 度を越したうるささが邪魔になるのがたまに傷だが、よく言えば屈託ない性格で、居心地はそう悪くない。莉哉の気質には、ざっくばらんな人間が合っているのかもしれない。そう考えれば諒のことも納得できる。
「そうそう!これを見てみろ、ナル!」
 切り換え早く、取り出された井塚の携帯電話。画面を覗き込んだ成澤は感嘆の声を洩らす。しかも結構大仰に。わざとではなく、心底という感じに、少しは莉哉も気をとられたのだが、話に乗る体制はとらず、漫然と外を眺めた。
 召還以降、気づけば空を仰ぐことが多くなった。
 この空の彼方に、この空の下に、どこかに、彼女がいる気がして…。
 人に指摘されるほどであっても、無意識なのだからどうしようもない。
「ダントツだな!見ろよ、莉哉!」
 笑顔満面で井塚から携帯電話を奪取すると、成澤は莉哉の鼻先にずいと突き出し、莉哉は視線も送らずに払う仕草をした。
「興味ない」
「お前ね…、世の中協調性ってものは必要なんだぞ?」
「俺はちゃんと相手を見極めてるから問題ない」
 呆れ顔で息を吐く。
「どういう意味だよ」成澤はむくれる。
「失礼な奴だな」井塚は笑う。
「どっちが失礼なんだよ。お前らみたいに品定めするような輩が。どの口が言うってんだ」
「品定めとは人聞きの悪い。鑑賞と言ってほしいね」
 根拠なく胸を張る成澤から携帯電話を取り返し、井塚は少し口調を変えた。聞く者によっては全く気にならないくらいの微妙さで。
「大体莉哉はさ、朝香を振るくらいだからな。理想が高過ぎなんだよ」
 贅沢者め、と小突かれる。たっぷり揶揄する響きだった。はいはいと受け流してはいたものの、痛いところを突かれてしまった。
 表面を取り繕って、胸の内の苦いモノを悟られないようにした。
 気を廻してこの話題に触れないようにされるよりは、何の頓着もせず口にしてもらった方がいいのだが、やはり数ヶ月経ってもしこりは残る。罪悪感というか、罪の意識というか。
 彼女に非があるわけでは、決してなかったのだから。
 人を傷つけた罪に苛まれる。
 朝香とはクラスは違えど間に二クラスあるだけなので、廊下で顔を合わすことも少なくない。最近になって挨拶やちょっとした会話を交わすようになった。それは莉哉からではなく、彼女の方からそうしてくる。
 引け目を感じずにいられない莉哉に対して、友達としてならいいよね、と朝香は言う。見る者を魅了する微笑みで。
 対面する時、明るく声を掛けられる時、笑顔を向けられる時。その度に、心の奥がチクリと痛んだ。目の前の彼女の本音が、伝わってきた。
 望みを叶えてあげられるのは莉哉しかいない。だがその想いに応えられない。それならば、現状を貫き通す他ないのだ。
 幼少の経験が成す気質なのか、莉哉は人の感情を敏感に読み取ってしまうきらいがあった。
 受けて然るべき罪なのだと、莉哉は考える。故に、その痛みを甘んじて受ける。
 勝手に盛り上がる二人を余所に、莉哉の意識は遠く離れた所に飛んでいた。
 空は同じなのに、違うものだ。この空は、彼女の元には続いていない。あれは現実だったのかと疑うこともある。いっそ夢だったなら、心は軽くなれるのだろうか。
 だが語るのだ。
 心に残る想いは、間違いなく本物なのだと。そして諭される度、大事にしたいと内に誓う。
 思い出になどしたくない。いずれ風化してしまう、不確かなものになど…。
 莉哉を現実へと引き戻したのは、甘く疼く、キーワードだった。絶対にこちらの世界で発露する筈のなかったそれが、思いがけないところで飛び出した。
 だから、呑み込み掴み取るまで、数秒掛かったくらいで。
「誰だって!?」
 唐突に立ち上がり、井塚に掴み掛かった莉哉に瞠目する。素直に驚いた顔が二つあった。
「へっ?」
「名前だよ!なんて言った!?」
 基本、一歩引いて受け流すことの多い莉哉には、珍しい声色だった。一種の気迫みたいなものに僅かにたじろぐ。端整な顔に迫られて喉を詰まらせた井塚に代わって、成澤が答えた。
「貴奈津ミウカ、だって」
 なに、知り合いなの?と続けた問い掛けは、受け取る相手を失った。弾かれるように莉哉は廊下へとすでに飛び出していたからだ。
「おい!莉哉!?」
 残された二人は怪訝な顔つきで首を傾げた。が、とって帰ってきた莉哉の勢いに再び気圧される。
「な、なんだよ。顔怖いって!」
「何組だ?ってか、携帯見せろっ!」
 莉哉がにじり寄った時、担任が教室に入ってきて着席を促した。最後に残った莉哉も名指しで注意され、不承不承従った。その手に井塚の携帯電話を握り締めて。
 画像に映る人物の名前を『ミウカ』だと、井塚は言った。
 莉哉の心の水面を激しく波立たせるその名前。――逢いたいと切に願う相手。
 HRが始まって、担任の位置からは見えない人影に隠しながら、二つ折りの携帯電話を開く。手が小さく震えているのに気づき、苦笑が浮かんだ。
 ただの偶然かもしれない。けれど、そうある名前ではない。心臓が早鐘を打っていた。
 カチリと小さな開音が、やけに耳にこだました。


[短編掲載中]