廊下は走るな、なんていう注意も背中で受け流し、莉哉は校内を奔走していた。得意満面の井塚から出せるだけの情報を受け取って、HR終了後すぐに教室を出た。
 一年生は西校舎の二階。二、三年生は東校舎のそれぞれ二階と三階になる。二つの校舎は廊下で繋がっており、間に中庭が整備されていた。
 初々しさ全開の西校舎二階に足を踏み入れた途端、妙な居心地の悪さに歩調を緩めた。
 学年の見分けはネクタイの色だ。それでなくても目立つ目鼻立ちの莉哉は、存分に注目を集める羽目となった。
 莉哉が興味を示した『貴奈津ミウカ』という人物に俄然好奇心を触発され、一緒にこようとした二人を跳ね付けたことを少し後悔する。
 視線の集中砲火を巧くかわす手段を考える余裕はなく、無視を決め込んだ。
 目的の教室の前に来て、入口から顔を覗かせる前に小さく深呼吸した。ひどく気持ちが昂ぶっている。違うかもしれないのに、その可能性の方が断然大きいのに、期待だけが先走って膨らんで止められない。
 井塚の携帯電話に保存されていた画像。遠目で撮影されたそれは、あまりにも小さくて顔の判別などつかないものだった。
 大体!ナルもナルだっ。なにが「ダントツだ!」だよ。
 カチンときて、投げ付けて返却したのは言うまでもなく。
 ふと思い出し怒り。いかんいかん、と心を落ち着けて、目的の教室入口の縁に手を掛けた。
 戸口付近の机に溜まっていた数人に声を掛ける。会話の断片が耳に入って、同じ中学出身ということが判った。
 莉哉が声を掛けると一番近くにいた子が振り返って、笑顔のまま固まった。鼻の周りに薄くそばかすの散っている愛嬌のある顔だった。
 初対面でこの少女のような表情をされるのには正直慣れた。容姿は変えようがないし、卑下する類のものでもない。むしろひがまれるくらいの容姿は誇りにすべきだという、悪友…もとい、井塚と成澤の助言を、朴直に受けておくことにしていた。
「ちょっとごめんね。人を捜してるんだけど」
 視線を教室内に巡らせた。そばかすの少女は莉哉の顔に釘付けだ。探し人の姿は見当たらない。
 やっぱり、単なる偶然か?
 そばかすの少女の返事を待たずに先を続ける。
「貴奈津さん、って…いるかな?」
 ぽうっと見惚れていた少女は意識を戻し、莉哉同様教室内を見渡した。
 いないですね、と呟きながら顔を元の位置に戻す時、同じ輪の中にいた少年が「そういえば」と口を挟んだ。
「なんか、保健室に呼ばれてましたよ?」
 なんで?という疑問は、彼の表情を見ればぶつけても仕方ないものだと判別した。礼を述べ、早々に身を翻す。向かう先は勿論、保健室だ。


◇◇◇


 保健室は西校舎の一階、校庭側に位置する。走らなくともすぐに着く距離なのだが、莉哉の心情を顕著に示す速度で進んでいた。
 角を曲がり保健室の入口を見遣って、丁度入室する影を捉えた。
 あ、と思った瞬間にはスカートの裾が中へと吸い込まれるところで、顔は未確認。肩よりも少しだけ長い細髪が軌跡を描いていた。
 薄茶色の髪。莉哉と同等の淡い栗色。地毛で通すには明るすぎる色だが、珍しい色ではない。これくらいの年代であれば故意に染める者もいる。
 比較的自由な校風のここ常汪高校では絶対に有り得ない色ではなかった。
 チラリと見えただけなのだ。彼女だという証は微細も無い。…なのに、胸中がざわついた。冷静に努めなければ、なんていう理性は、騒ぐ心臓の前では意味を成さない。
 駆け寄った勢いのまま扉を開け、室内へ飛び込んでいた。あまりの勢いに、開けたてられたドアがビリビリと振動の余韻を残す。
 室内にいた二つの双眸が、唐突な侵入者に向け、驚き入った視線を送っていた。
「あ…」
 愛らしい声音が、莉哉の耳をくすぐった。懐かしく、愛しくて、目の奥が熱くなった。
 どれだけ自分が情けない顔に崩れているか、想像するのは容易かったけれど、他のものに変えるなど到底無理だった。
 あれだけ勢いのあった足取りも、嘘みたいに根をはって動かなくなっていた。ただ一点を凝視する。対する瞳も、莉哉をじっと見上げた。
 一秒が何分にも感じられて、言葉を発することも動くことも、きっかけを失い、躊躇われる。
 あの時、あの場所から消えたのは自分自身なのに、今は目の前の少女がいなくなってしまいそうな焦燥にかられた。何を口にすべきか浮かぶ前に、唇を開くも、声は音にならなかった。
 硬直する莉哉の代わりに少女が動き、腕の中に飛び込んできた。巧く反応することができず、柔らかく受け留めたものの、突っ立ったままになってしまっていた。
 いないのだと判っていても、いつもどこかで捜していた影が腕の中にいる。莉哉の両腕に置かれた手から、温もりが伝わってくる。幻じゃない。確かに少女が、存在していた。
 どうしてここにいる、なんて単純な疑問さえ沸き起こらないほど、気持ちは昂ぶっていた。
 少女の指先がそっと、莉哉の頬に触れた。優しく慈しむ手つきに、込み上げる感情を必死に飲み下す。
 かち合った瞳から、逸らすことは叶わない。否、そんな気もなかった。見つめていないと消えてしまいそうな、不安に煽られるだけだ。
「……良かった…」
 消え入りそうな呟きだった。頬にあたる指先が震えている。少女の抱えていた憂えが、浸透してくる。
 きゅっと唇を引き結び、理性が感情に勝つのを待ってから、少女の名を呼んだ。声が震えていた。ひどくうわずっていて、羞恥心が弾ける。
 見上げる視線は記憶の彼女と寸分違わない。心音がうるさいくらいに騒いでいた。
「抱きしめても、いいか?」
 思考がまともな言葉を選ぶ前に、感情が先走っていた。目の前の唇が答えを形作る。
 そして、
「断る」
 聞こえたのは、きっぱりとした否定だった。


[短編掲載中]