うろたえる、という言葉を彼は身をもって痛感した。
 低く落ちてきたその台詞に、声質を冷静に分析するよりも、その意味に意識をとられていた。しかしそれも一瞬のことで、追いついてきた耳の機能が、紡いだのが少女ではないと判断した。
 顔を上げようとして、今度こそ正真正銘、少女の返事が返ってきて、視線をずらせなくなった。
「――え?」
 聞き逃したわけではないが、にわかに信じられなくて、思わず聞き返していた。
 ミウカは先よりも柔和に微笑み、更に優しく、繰り返した。
「いいよ」
 穏やかな微笑みの向こう側に、ラスタールの風景が見えた。気がした。ルーリが香る錯覚に包まれる。
 それをにべもなく叩き壊したのは、先程平坦に拒否の単語を発した声。
 確かに保健室に入室した瞬間には認識していた存在も、ミウカの姿を認めた瞬間に、今の今まで掻き消えていた。
 ようやと第三者の存在がしっかりと視界に入った。そして、その姿形に瞠目する。露骨な驚愕の表情に、当の本人はうんざり顔をみせた。またか、と溜息と一緒に吐き出す。
「びっくり、するよね。あたしも最初は声を失ったもの」
 すぐ真下からの少女の口調に更なる吃驚。その原因をすぐさま悟入した少女は、照れ臭そうに笑った。
「変、だよね。言葉遣い耳慣れないよ、ね」
「いやっ…あの、ごめん…」
 似合うか似合わないかでいえば、前者に決まっている。本来この語調こそが少女にふさわしい。だが記憶の中の彼女が紡いでいたのは少年ぽいもので、それこそが彼の中ではイコールで。
 もう一度謝ると、ミウカは益々照れ入っていた。居心地の悪い沈黙が数秒あって、第三者が再び間の空気を壊した。
「俺は、そんなに似ているのか。その…コウキって奴に」
 首の後ろを所在無く掻いている。
 似ているなんてものじゃない。違うのは髪と瞳の色だけ。どこからどう見ても、こちら風に髪型を変えたコウキだった。体躯も背丈も眼差しも。端的な話し方さえも。
 Yシャツにネクタイ、その上に白衣を羽織った姿に戸惑う。
「だから言ったじゃない。逸兄はそっくりだって」
「んなこと言われてもだな」
 辟易した表情までそっくりだ。なんで生きてる、と問い掛けてしまいそうになる。
 面倒臭いといわんばかりの溜息を吐いて切り換えをつけると、逸はミウカに視線を向ける。
「それよか、ミウカ。お前は俺から学んだことを忘れたのか」
 誡めるような口調に莉哉はむっと眉をひそめた。僅かに逸からミウカを庇うように身を動かす。ミウカはそんな男二人に挟まれる位置にあって、雰囲気にそぐわない声を放った。
「判ってるって。この場面でイエスは選択してはいけません。相手に恋人がいるのだから」
 講義する教師のような口振りだった。揶揄する色も垣間見える。そして続けた。
「ここはナラダじゃない。同じようにはいかない」
「判ってんなら、」
 離れろよ、という台詞はミウカの表情を前に続けられなかった。真摯な光が宿る瞳に、懇願が見えた。
 ミウカは「だけど、」と口籠もり、莉哉の服を掴む指先に力を入れた。
「今は…今だけは、見なかったことにして」
 少女が呟く。言葉尻を待たずして、逸は二人に背中を向けた。
 ミウカと逸。何故知り合いで、いつからミウカはこちらにいて、二人の間にどんな遣り取りがあったのかなんて、莉哉には知る由もない。まして、この瞬間に必要な情報でもない。
 真っ先に優先すべきは、伝えるべきは、朝香のこと。誤解されたくない。浮かんだのは、それだけだった。
 なのに、胸にあたる温もりに、遮られた。莉哉の胸にミウカの頬が寄せられていた。片耳をぴったりとくっつけている。
 心臓が暴れ狂い、熱が顔に上がる。力強く刻まれるそれを、ミウカは目蓋を降ろして聞いていた。――生命が紡ぐ証の音を。
 ミウカの心情が流れ込んできて、戸惑いは彼方へと霧散した。少女の身体に触れぬよう、両腕で輪を作り、すっぽりと包み込む。――雷が彼女を脅かした時と同じように。
 記憶が押し寄せる。色褪せない大切な思い出。同時に、遣る瀬無い思いばかりの記憶。
 掘り起こすにはまだ辛く、ずっと引き出しの奥に仕舞っていたもの。それが今、鮮やかに蘇る。
 大切に護りたかったその存在を腕に、心地いい感触にどっぷりと浸かっていた。が、
「っ…!?」
 唐突な痛みにパチンと目を開いた。見下ろした莉哉の視界に入ったのは、真剣な顔つきで丸いものを胸に押し付けているミウカだった。
 硬く小さなそれを、まるでそこに戻そうかとするみたいに。
「な、なにやって…!?」
「や…、ごめん。なんでもない」
 途端バツが悪そうに珠を引っ込める。
 透明でほんのり翠色。仄かに光をたゆたわせている。
 ミウカが仕舞い込む前に取り上げ、蛍光灯にかざしてみる。小さなヒビが一本入っていた。
「なんだ、これ」
 少女が目一杯腕を伸ばしても、身長差プラス高く上げられた莉哉の手から奪回することは不可能だった。ややしばらく踏ん張って、話さないと返さない的な目線に観念して息を吐いた。
「《聖珠》って呼んでる」
「用途は?」
「単なるお守り。返して?」
 単なる、と言った割には、手元に帰ってきた《聖珠》を慎重に扱っていた。慈しみ包み込む、柔和な手つき。
 向こうにいた時には、持ってなかったよな?
 疑問が率直に顔に出てしまい、ミウカに笑われた。
「莉哉がいなくなった後、見つけたものなんだ」
 こっちに戻ってきて、そこそこさらぬ顔を取り戻していたのも、あっという間に泡と消えた。ミウカの前ではもう、無理らしい。
 素直に自分を表現出来るのは、やはり楽だと思った。
「こっちに来たんだな」
「うん」
「ここに存在してるんだよな。……ずっと、いるんだよな…?」
「……」
 何があるんだ、とは聞けなかった。聞いてはいけないキーワードのように思えて、怖くなってしまっていた。


[短編掲載中]