――ずっと、近くにいる。

 その言葉が彼に届いていたかは定かではない。
透明に、光の粒子となって拡散していった『波紋を投げ掛ける者』――あとに残された《聖珠》
 澄んだ双眸と同じ、翠色の光をたゆたわせていた。
 彼の忘れ物を届ける為に、少女はこちらへとやってきた。総てを棄てる覚悟を胸に。


 広いリビングにフラットで続くベランダへの窓を開け放ち、少女はその境目に座っていた。身体の側面を外に晒して、サッシに背をもたせかけて。
 肌寒いくらいの夜気は、思考を冴え渡すには都合がいい。
 何度も反芻した記憶。辿っては繰り返し、模索し続けている。
 ラスタールを去り、こちらの世界へと来てすぐ、逸と出逢った。出逢うべくして出逢った。その瞬間に、コウキと瓜二つの容姿を持つ逸は、本来ある筈のない記憶を共有した。ラスタールの世界を知った。
 奇異な体験に対して、抵抗も拒絶もなかった代わりに、逸は「まるで共犯者の気分だ」と言って、少し自嘲気味に笑った。
 得体の知れなかったミウカを捨て置かず、居候させてくれている。口は悪いがその手が優しいことを、ミウカは知っている。何だかんだで面倒見はいい。
 逸に刻まれた記憶は、概略的な部分も多い。だが、そのほとんどが辛いものだと了知しているので、詳細を聞くだとか、掘り返すことは決してしない。ミウカから話す分には耳を傾ける体制をとり、大きな包容で見守るだけ。
 無防備に座ってはいても、少女の掌にしっかりと包まれている《聖珠》。宝物のように、肌身離さず持ち歩いていた。失くしてはいけない、大切なもの。何をもってしても、護らなければいけない。 これは、莉哉そのものだった。
 強い祈りがあれば、叶うものなのだろうか。
 再び繋がれた『光の橋』
 少女は、たった一筋の希望に縋って、こちらへとやってきた。
「また耽ってんのか。ぶっさいくな顔になってんぞ」
 いつの間にか傍に来ていた風呂上りの逸が、ビール片手にミウカを見下ろしていた。
 勢いよく向けられたミウカの視線をさらりと流して一口飲むと、わしわしとバスタオルで髪を乱暴に拭いている。
 逸の作り出した陰が少女をすっぽりと覆っていたのに、ミウカは室内光が翳ったことさえ気づかなかった。
 平和ボケでもしてるのか?
 気が緩み過ぎなのかもしれない、と叱咤する。
 ナラダに比べ、遥かに安全に暮らせる生活になって数ヶ月。住み良いようにしてくれる逸のおかげもあって、ミウカはだいぶ『こちら』の人間らしくなっていた。まだまだ綻びはあるけれど。
「ホームシックか?」
 逸は少女の傍らに胡坐をかいて座る。
「まさか」
 ふい、と視線を外へと移す。正面きって言いたくないのだとするように。
「――自分は裏切り者だから。……還れない」
 呟く音量でも、しんと静まり返った部屋の中では聞こえてくるもので。
 逸は無表情で少女を見、対して、ミウカは緩めた。
「逸兄、雫落ちてるって。ちゃんと拭いてから出てきなよ」
 間に流れる空気に重量感を帯びさせたくなく、少女は平坦に話題を転じた。
「小姑か、お前らは。二人して細けーんだよ。ルイがいないのは救いだな」
 少女の心情を充分汲み取って、逸もそれに乗る。
「そんなこと言ったら、ルイ泣くよ?」
「あ、お前。アイツには絶対言うなよ?」
「では、失言は慎むようにして下さい。次は告げ口するからね?」
 まぜっ返してくるミウカを眺めて、逸は口端に笑みを刻んだ。
 あの場所で見つけ、この部屋に住むようになった当初、逸の目に映るミウカは、深くどこかに堕ちている雰囲気を持っていた。救いようのないほどに、暗く深い。
 ミウカの背負ってきた――これからも引き摺っていくであろう陰の部分を見てしまったことで、逸は放っておくことができなかった。
 逸の視線がミウカの両掌に包まれている《聖珠》にあって、つられてミウカも視線を落とした。保健室での経緯を思い出して、再び蔭りを落とす。
「やっぱり押し当てるだけじゃ駄目だった」
 落ち込んだミウカに、溜息を吐き、わざとそぐわない笑声を零した。怪訝そうに見つめるミウカに、視線の矛先を向ける。
「あいつ、かなり戸惑った顔してたよな。ウケた」
「笑い事じゃないよ、逸兄」
 咎める口調の中に感謝の心情を混ぜた。逸の気遣いを、ミウカは敏感に感じ取っている。
「逸兄、ね」
「あん?」
 窓の近く、ミウカの近くに胡坐をかいて月を見上げていた逸は、ビールを飲もうと顔を上向きにしていたので、変な声での返事になってしまった。首の角度を普通に戻し、軽く咳払いする。
「なんだよ」
 変声での返答を気にしていないミウカの目線は、依然掌にある。大事に包み込んでいる《聖珠》に。その瞳は先程とはうって変わって真剣なものだった。
「聞いてこなかったね」
「…ああ。聞きたそうな顔はしてたけどな」
 保健室で少しだけ落ち着きを取り戻した莉哉の顔が思い出される。ミウカはついと視線を逸の瞳に置いた。
「絶対、内緒にしてよね。知らんぷり決め込んでよ?」
 あまりにも真剣な表情で、逸は浮かんでいた揶揄の言葉を打ち消した。ビールを一口飲む。
「俺には聞いてこないだろーよ」
「万が一、だよ。約束して?」
 ミウカがこちらに来た理由を、絶対に知られたくはないのだと、少女は懇願する。
 ずい、と差し出した小指を逸の鼻面に突き出した。
「お前ね…。俺をルイと一緒にすんな」
「こっちでも約束のしるしは指きりなんでしょ?」
 ビールの缶を取り上げ床に置く。そして再びずいと小指を出した。
 口約束だけで充分だと判断する逸に対して、些細なことに拘るミウカを発見する度、歳相応の彼女を垣間見ている。
 ルイの影響が大きいのだろう。ラスタールに残り、皇室付騎士団に所属していたならば、今だもって少女の虚勢は崩れていなかった。ミウカよりも三歳下のルイに影響を受けるというのは、いかがなものかと思う部分はあるにせよだが。
 はいはい、とルイに根負けした時と同じ表情になって、逸はミウカの細い小指に自分のそれを組ませた。ぶんぶんとニ、三度上下に振って指を絡ませたまま、ミウカは礼の言葉を述べる。
「判ったから、放せ。こんなくだらんことばっかり覚えてないで、勉強の方はいけんのか?入試にパスしたからって安心すんな。ギリなんだからな?あっちゅー間に落ちこぼれになんぞ」
「いきなり先生モード入んないでよ。なんとかするよ」
「学校ではちゃんと先生つけろよ」
「うん。でも内緒ってわけでもないんだよね?」
「校長とかには話してあるし隠す必要はないけど、わざわざ公言することでもない」
 面倒なことになるだけだからな、と付け加えた。ミウカに実体験があるわけじゃないが、逸の言ってることの顛末は想像がつくので素直に頷いた。
「とっとと寝ろよ」
 おやすみ、と言って逸は立ち上がり背を向ける。立ち上がりざまに髪をくしゃりとされた。逸がいつもルイにする仕草だ。
 そこに、声に出さない言葉をミウカは聞いた。
「あんまり思い詰めんな」そう、聞こえた。
 キッチンへと向かう背中を見送りながら、銀色の影が掠めた気がした。

 何もかもが偶然のようで、必然のようだった。不明なことは際限ない。どんなに不明瞭なことが多くても、一つだけ確かなものはある。
 少女の目途――それだけは貫くと誓った。


[短編掲載中]