夕暮れ色に染まり、目に映るもの総てがオレンジの世界だった。
 艶やかに肩に掛かる細髪も、滑らかな線を描く頬も、あたたかな色に染まっていた。かつての色を失って尚、少女には暖色系がよく似合う。
 睫毛の陰が頬に落ちている。俯いてノートに落としている視線の所為なのか、近づく気配に全く気づいていない。ノートに陰が掛かってようやと、その顔を上げた。
 軽く息のあがった人物を認め、それまで真剣な顔つきだったのが緩く笑顔になった。
 こんな些細なことを、嬉しく思う。
 彼女の世界で知り合い、同じ時を過ごし、傍にいて、産まれた感情。幻でも勘違いでも思い込みでもない。――本物の、想い。とても大切な。
 喉に込み上げる気持ちをぐっと飲み下す。欲張ってはいけないと己を諌める。今ここに、彼女がいることだけで、奇跡なのだから。
 目顔で座っていいかと問い、少女は頷いた。極上の微笑みを添えて。
 莉哉の頬に熱が上がる。赤くなってはいないだろうかと憂え、指摘されたなら夕日の所為にしようなどと、どうでもいいことを考えながら向かいに座った。
 しんと静まり返った図書室。まばらに座る数名も、一様に机上の書物と睨めっこしている。他を干渉しない雰囲気がそこには流れていた。切り取られた空間の外側から、部活動に励む威勢のよい声が遠くに聞こえた。
「どうしたんだ?」
 トーンを落として、ミウカは少し前屈みになった。机に奥行きがあるので、身を乗り出して近づかないと小声では聞こえずらい。向かいではなく、隣に座るべきだったと内心舌打ちする。
 どうにも、対ミウカではこれまでに作り上げてきた滞りない莉哉を繕えない。彼女がそんなことに頓着しないことは、百も承知なのだけど。
「うん?」
 咄嗟には質問の意味を飲み下せなくて、惚けた声が出てしまった。用もないのに声を掛けられて迷惑だったか、と過ぎる。だが結局、こんなネガティブ思考も取り越し苦労だったと、次の台詞で判った。
「ジャージ着てる。部活?あ、そっか。助っ人、ってやつだ?」
「っと、うん。…そう」
 まごついた返答になった。再度内心舌打ち。
 ひどく格好悪くないか?今の俺。ださすぎ。
「ミ、ミウカは…ここで、なにしてんだ?」
 巧く取り繕えない莉哉相手に、ミウカはやはり気に留めていない。莉哉の言葉を受けて、自分の手元に視線を落とした。教科書やらノートやら参考書やら、机上品は全部開いた状態だった。
「勉強?」
「わわっ。あんま見ないで。字、めちゃくちゃ汚いからっ…」
 抱え込むようにしてノートを手繰り寄せる。慌てるさまを見れるのも、こっちならではかもしれない。
「どれどれ?」
 延ばした指先が後数ミリ届かなかった。機敏に届かぬ距離まで持っていかれる。
「気にするほどなのか?だって、こっち来てから覚えたんだろ?」
「そうなんだけど、ね。勉強とかも、大変だ」
「それで勉強してるってわけか」
 ミウカはパタンとノートを閉じて、重しを乗せるように自分の腕を置いた。
「この前小試験で赤点とってしまって。明日追試」
 恥じ入りながらも辟易している表情が可愛くて、思わず笑ってしまった。小さく口を尖らせても凄みはない。
「字が書けるだけでも、すげーことなんだけどな」向こうの世界で字を読むのに苦労したことが思い出される。「それだけじゃ学校って所はやってけんもんな」
 教科書の一つを持ち上げ、莉哉は自身の顔の前にぶら下げる。一年の時に習った内容に、懐かしさを覚えた。
「ほんと通用しないな。向こうとは全然違う。魔物の特性、倒し方、薬草の調合知識ならごまんと詰まってるんだけどな」
 少女はとんとんとこめかみを指先で叩いた。
「こっちじゃ役に立たないよ」
「真面目に返すな。冗談だ」
 判ってるよ、と応じた。
「教えようか?」
「うん?」
「勉強。得意不得意の差はほとんどないから、全教科いけると思う」
「いいのか?助かるよ」
 もっと早くに持ちかければよかった。巧い口実が出来たと心の中でほくそ笑む。
「ところでミウカさん。言葉遣いがあっちのになっちゃってますが?」
 揶揄する響きに、ミウカは口元に手をあてた。苦虫を潰し顔になり、くすくす笑う莉哉を斜視した。
「莉哉といると、どうしても調子が戻ってしまうんだっ…!」
 悔しそうに拗ねている。莉哉の内部をくすぐる一言だ。にやけてしまいそうになる。唇を引き結び、必死に表情を作った。
 赤くなった少女は話題を変えるに限るとばかりに、咳払いをした。ノートで鼻の位置まで顔半分を隠してしまっている。
「ここにいるの、よく判ったな。抜け出してきて、なにか用事でもあったのか?」
 すっかり忘れていた。落ち着いてないのはどっちなんだか。
 舞い上がっていた己を引き締め、目の前の少女に改めて向き直った。が、いざとなると勢いがしおしおと萎れていく。実に情けないのだが、自身に向けられる双眸はあまりにも純然無垢で。あの単語を口にするもの躊躇われる。
「なんなのだ」
 あれこれ逡巡する内に押し黙ってしまっていた莉哉に、困ったように笑った。すっかり口調はナラダにいた時の彼女で、後押しされている気分になる。
「気を悪くしないでほしいんだけどな…」
「うん。なんだ?」
「その、香椎とのこと…っていうか…」
 逸の名前が出たことで、それまで疑問符を浮かべていたミウカは一気に合点顔になった。
「噂か?なんだか、色々言われてるみたいだな」
 声を殺して笑うミウカは、噂を聞きつけて笑い飛ばしていた麻居諒と同じく、興趣すら窺えた。気に病んでる様子は微塵もない。
「聞いてると面白いよな。どっから出てくる発想だよって…突っ込み、っていうのだったか?したくなる」
「…大丈夫なのか?言いがかりとか、つけられてない?」
 香椎逸はあの容姿に加え、およそ教員には似つかわしくない言葉遣いで、けれど仕事っぷりはかなり優しい手であるようで、女子の人気はもちろんのこと、男子の評価も決して悪くなかった。
 噂になるだけでも目を付けられる対象になるだろう。
「心配してくれてるのか?問題ない。大半は根も葉もない、ってやつだから」
 じゃあ大半に当てはまらないものもあるんだな?と声に出さずに呟いたものは表に出ていたのか、ミウカは困ったように笑った。
「隠してたわけじゃないんだけどな、言い触らすことでもないから、言ってなかったのだけど」
 莉哉にはもう《透察眼》はない。未来も過去も、どんなに小さなことでも、この《眼》は映さない。そこにあるものを忠実に見せるだけ。
 だからこれは胸騒ぎなのだ。ざわざわと嫌な感触が騒いでいる。拒否してしまいたい予感。
 遮ろうかと葛藤した時、ミウカの声が紡がれた。
「逸兄の所に居候している」
 逸兄イコール香椎逸だと結びつくまで、数秒要した。思考回路が繋いだのは、感情任せの言葉。
「……え…それって…」
 同棲してるってことじゃ…。
 否定するようにミウカは続けた。
「家族も一緒。ルイって妹がいる」
「にしたって、他人同士だろ?そんなんがバレたら、色々まずいことになるんじゃ…」
 想像力の豊かさに負けて、言い淀む。言いたくもない。
 対照的にミウカは飄々としていた。
「イトコってことになってる」
「は!?」
「便宜上の設定だ。逸兄なら巧く立ち回るよ。長けてんだ、そういうことには」
 呆れたような、感心したような声色だ。
 一つ確実に感じ取れたのは、ミウカの信頼が置かれている人物だということ。ここで疑いの眼を向けるのは、彼女の判断を否定することになる。それはしたくなかった。
「大丈夫だぞ?――逸兄は知ってるから」
 鋭い、と感心して、次にすぐ湧いて出てきた疑問が口をついた。
「知ってる…?」
 コクンと頷く。
「どこからきて、何者なのか。向こうでなにが起きたかを」
 ミウカは更に声を低くして続けた。
「自分を発見した時、『見せられた』そうだ。細部まで記憶は完全一致してないけど、概要を語れるくらいは知っている」
 今にして思えば自分は導かれたのかもしれないな、と逸は言ったという。
 状況適応は彼の中に、滑らかに浸透した。そうなるのが当然のごとく。――逸は選ばれたのだ。
 彼女を見つけるのが何故、自分ではないのか。何故、『彼』に似た容姿の香椎逸だったのか。
 何故、繋がれていた先にいたのが、自分ではないのか。
 悔しかった。お前では力不足だと、言われている気がした。
「莉哉?」
 心配そうな双眸が莉哉を覗き込んでいた。思考が表に出ていないことを祈り、咄嗟に目線をずらした。
「大丈夫なんだな?窮屈な思いとか、してないよな?」
「心配なら無用だ。なにも問題ない。面倒見はいいからな」
「判った。けど俺にできることがあれば言ってくれよ?今度は俺が助ける番だ」
「ん。そう言ってくれると、心強い」
 夕焼けに染まる少女。柔和に細められる瞳を向けられる度、どうしようもなく幸福感が満ちてくる。
 ただただ無力でしかなかったあの頃より、きっと力になれることはあるだろう。あってほしい。悔しいだけの気持ちを抱え続けるのは、もうたくさんだ。
「渋い顔つきになってるぞ」
 声を極力落としてくすくす笑う。「そんなに心配しなくても、大丈夫だ。なにかあれば相談させてもらう」
 どうにも表情に出易くなっているのだろうか。気恥ずかしさが込み上げてくる。
「にしても、あれだな。普通再会したらすぐにでも聞くよな、どこ住んでんだ、とか」
 浮き立っていたのは自覚している。それにしても抜けていると思う。
「莉哉は、目ざといんだか抜けてんだが、不明だな」とミウカは茶化した。
 ラスタールの記憶があってこそだ。こちらに戻ってきて、記憶が消えてしまわなくてよかった。
 再び逢えた奇跡に感謝しなければ罰が下る。他人を羨んで悔しがるより、前向きになった方が断然いい。
 口元を綻ばせ、莉哉は少女を斜に見た。
「だから、目ざといとか言うな」
 本当はずっと、こうして向かい合っていたいのだが、邪魔をするわけにはいかない。自分もそろそろ戻らなければ。
 ただ一つだけ、どうしても引っ掛かることがあって、どうしても今、答えを知っておきたかった。つと篤実に戻り、静かに口を開いた。
「なんで、こっちに来たんだ?」
「それは理由?方法?…どちらにしても、判らないんだ」
「気づいたら、いた?」
 莉哉が召喚された時のように。
「逸兄の家で目覚めたんだ」
 ミウカが目覚めた時にはすでに逸は沈着冷静で、凪いだ瞳を今でもはっきりと思い出せると、少女は目を細めた。
「目的とかが、あるわけじゃない?」
「……判らない。莉哉だって召喚された理由を、最初から知っていたわけじゃないだろ?」
 間髪入れず、きっぱりと言い放つ。まるで宣言みたいに。
 そこに発生した微妙な空気の変化に、莉哉は気づいていた。ナラダにいた頃、同じ空気を感じたことがある。
 それは少女の『優しさ』が成すこと。
 だから、踏み込んで問いただすなど、絶対に出来なかった。


[短編掲載中]