背中に威嚇オーラをしょったサッカー部員が、莉哉を強制連行して慌しく部活へと戻っていくのを見送ってから小一時間後。ミウカは逸と一緒に帰路についていた。
 逸は滑らかに車を走らせている。帰り時間が重なればこうして一緒に帰るし、朝も逸が早く出る以外は車に乗って登校している。目撃情報が多くのぼるのは当然だったろうし、あんな噂が立つの仕方のないことだった。
 噂が立った時、逸は氷点下の笑いで一蹴したそうだ。「ガキに興味はない」と一言添えて。
 逃げも隠れもない対応に、逸にとってのミウカは「ただのイトコで同居人でしかない」と認識されるのは、噂が広まったのと同じ速度で浸透していった。
「ひとまず納まりそうだね、噂。中身聞いた?面白かった」
「阿呆、と笑い飛ばしてやったら意外と早く落ち着いたな」
 逸は片手でハンドルを操作しながら鼻で笑った。ほんの少しだけ片方の口端を持ち上げて笑う癖までも、コウキに似ていた。
 そんな細かなことに気づく度、ミウカはどことなく安堵している自分を自嘲する。いつからこんなに弱くなってしまったのだろうかと。
「どうかしたか」
 反応がなく、怪訝な顔つきでチラリとミウカを見て逸は端的に問う。
 少女は慌てて「なんでもない」と返した。油断するとすぐこれだ。コウキが生きていた頃から成長していない。独立独歩が不確立のまま。確認させられる度、情けなくなる。
 前を見据えたまま、逸は続けた。
「部活入ったんだよな?」
「天文部に。そんなに活動ないみたいだから、これまで通り家のことはするよ」
「俺が、んなこと心配すると思ってんのか」
 馬鹿にすんな、と心の声が聞こえてきそうな言い方だ。
 ミウカが居候することになって負担が軽くなったのは事実だが、これまでもルイと分担して家事をこなしてきている。さして問題ではない、と言いたいのだろう。
「顧問になったからな」
「へ?」
「天文部の顧問。押し付けられた」
 不機嫌なのかと逸を見遣るも、諦め半分面倒臭い半分といったところ。
 校長直々の依頼で、人材不足の為どうしてもと押し切られた。家庭の状況は話してあるので、びっちりと活動のない天文部を、ということになったという。
 元々運動部と兼任で他の先生が天文部を見ていたのだけれど、何かと多忙でおろそかになりがちだった。何かしら部活をみていないと他の先生の手前示しがつかない、という理由も含まれているらしい。
 現部長はしっかり者だから彼に任せておけば大丈夫、名目上だけですと、校長はのほほんと言った。らしい。
 渋々了承したさまが目に浮かんで、思わずミウカは笑ってしまった。
「まぁ、これで…ずっと監視してられるな」
「監視って…。見張ってなくても、悪さなんかしないよ」
 冗談に冗談返しだ。
 逸はそのものズバリを言葉にしない。ミウカがそれを望まないからだ。隠そうとして繕っているからだ。
 けれど常に、逸は少女の体調を気遣っている。――それこそ、コウキがずっとそうしてきたように。
ミウカは自身に起きている状態を決して口にしないが、逸が気づいている事実を、ミウカは悟っていた。
 遺跡に現れた瞬間から、ミウカの内部侵犯は確実に進んでいる。
 それは【赤銅】の所為ではない。少女が目的を果たす為に、護らなければいけないものの為に、己を犠牲にしている所為だった。
 そっと少女は胸に手を当てた。肌身離さず持ち歩いている《聖珠》がある位置を。
 常に紡いだ意識を送り込んでいた。そうすることで《聖珠》を護り続けている。何を置いても、護り続けなければいけない。そう、己に誓った。
 生きとし生けるもの総てから力を分けてもらえる【赤銅】の能力は、彼女に残されていた。否、再び吹き込まれた。もう【保護壁】を紡ぎだすことは出来ないけれど。
「――大丈夫だよ、逸兄」
 胸の前でぐっと拳を作った。その拳に言葉を吹き込み己の中へ送り込もうとするように。声に出して宣言していなければ、焦燥に負けてしまいそうになる。


◇◇◇


 途中、夕飯の買い出しにとスーパーへ寄った。カートを押す姿を逸のファンが見たら卒倒するだろうか、と思うと笑えてくる。毎度のこととはいえ、可笑しい。
「しょーもないこと考えてねーだろな」
 鋭い。こんなところもそっくりだ。
「勘ぐんないでよね。あ、醤油無かったよね。取ってくる」
 言うが早いか、逸の返事を待たずしてミウカは駆け出した。
 少女の後ろ姿を見送って、逸は小さく息を吐いた。
 奇妙な幻影を見、不可思議な出現をした少女との同居生活。こうなるのが当為だと、すんなりと受け入れてしまった己の感性。
 状態は異常であるのに、あまりにも自然に受け入れてしまっている。
 他人となかなか馴染めないルイが、ミウカには心を開いている。今の奇異な関係をずっと続けていくことに、何ら抵抗はない。可能ならば、そうであればいいとさえ思っている。
 ――だが、そうはいかないだろう。
 少女の目途を知っているから。時間が無いことも。少女の焦りも、内部を蝕まれていることも、知っている。
 乗りかかった船だ。自身に叶う総てで補遺しようと決めた。少女を護ると誓った銀髪碧眼の青年に、自分が似ているのも何かの縁なのだ。とことん付き合ってやろうじゃないか。
 食材片手に、献立が逸の脳内で組み立てられていく。食事担当が長かったおかげで料理の腕前には自信があった。
 ミウカの奴、遅いな。
 ふと思ったのと同時に、ざわつきが耳に入った。弾かれたように音の方を見、ミウカが向かった陳列棚の場所だと認識するや駆け出していた。
 数人が前屈みになっていた。誰かが奥に向かって声を出している。店の人呼んできて、とか何とか。心配そうな顔。戸惑った顔。おろおろしている顔。様々な顔が一箇所に集まっていた。
 その中心に、小さく小さくうずくまっている影を見つけた。もともと華奢な身体つきの彼女がしゃがんでいると、とても頼りない存在に見えた。
「おいっ!」
 額には汗が滲んでいた。少女が押さえている箇所に、背筋が凍りつくのを感じた。
 右手は胸に――心臓の位置で、ぎゅっと服を握り締めていた。拳を押し付けている。床についていた左手が移動し、しゃがみ込んだ逸の腕を掴む。
 騒ぐのは得策じゃない。声を落として逸はミウカの名前を呼んだ。痛みがひどいのか、純美な顔が苦悶に歪んでいる。
「だ…だい、じょ…っぶ」
「しゃべんな」
 ちょっとやそっとじゃこういうことを表に出さない。幻影からも、数ヶ月の同居生活からも、重々承知していた。そのミウカが繕いきれていないということは、余程のことなのだ。
「ちょっと我慢しろよ」
 少女の身体がふわりと床を離れる。しかと腕に抱き上げた。
 何度も大丈夫だと、ミウカは言っているつもりだったのだが、実際は声になっていなかった。そしてミウカの意識は放散した。


[短編掲載中]