陽はすっかり傾いて空が群青色に染まりかけた頃。
 図書室の閲覧用にあてられた机に突っ伏して、寝息を立てている少女の傍に立ち、司書係の生徒は困り果てていた。
 先程から声を掛けてはいるのだが、居眠りの主は全く起きる気配がない。鍵を閉めなければいけない時刻を二十分は過ぎている。おず、とした声の掛け方では目覚めないのも仕方ないのだが、強く出るのは心苦しく思う。
 同じ性別なのに、寝顔に魅了されていた。つい最近まで噂の渦中にいた人物だ。こんなにも近い位置で見るのは初めてだった。あまりにも綺麗で、いつまでも見ていたい気持ちにさせられる。恍惚に囚われてしまう。だがずっとこうしているわけにもいかない。
 よしと気合を入れて、少し強めに起こしにかかろうとして、扉の開く音に振り返った。
「寝てんのか?」
 噂の相手になっていた人物の登場だ。つかつかと寄ってくる端整な顔を、じっと見つめた。こちらも遠目でしか見たことはなかったのだが、騒がれるのも無理はない。思わず見入ってしまった。
 いつもは白衣を羽織っているのだが今はそれがない。イメージ的なものなのだろうが、白衣がないだけで、ほんの少し柔らかい雰囲気に見えていた。
「あー…、こりゃ起きねぇな」
 傍まで寄って顔を覗き込む。口は悪いが、兄のような温もりのある声音だった。
 噂の終結は「イトコ同士」なのだと聞いたのを思い出す。注目を引く見目だ。並んで歩いているだけでも噂になるのは仕方ないだろうと、司書係は動きを目で追った。
 観察を終え、姿勢を戻す逸の動きを追いかけた。
「あのっ…」
 高い位置にある美麗な顔、形のよい唇に人差し指があてられた。
「鍵閉めは俺がやっておくよ」
 柔和な表情を向けられる。魅了され、咄嗟に言葉が出せず、コクコク頷いた。
 イトコならば任せてしまっても問題ないだろう。差し出された掌に鍵を乗せ「お願いします」と頭を下げた。
 司書係が退室して、室内はしんと静まる。少女の寝息だけが、規則正しく図書室に響いていた。隣に座り、逸はネクタイを緩めた。
 ここ数日ずっと、少女が無茶をやらかしていることに逸は気づいていた。
 素路莉哉が部活中に怪我をして、以来強固に紡ぎ続けている。その所為で疲弊は目に見えて現れていた。こうして人の気配に全く気づかないほどに。
 意識を失うように眠りにつくのが、当たり前になるほどに。
 寝顔を見て、逸は思う。
 この少女は、数多の辛酸を嘗めてきた。そして乗り越えてきた。否、乗り越えきれずにいるのかもしれないが、その経験は彼女の中に刻まれている。
 妹のルイも幼い頃に傷を受けている。どちらが辛いなどと計れるものでもないのは百も承知なのだが、それでもどうしても比べてしまう。
 この子が強いのか、ルイが弱いのか。
 逸の妹であるルイは、兄に依存気味だった。
 彼女が十歳の時に両親が離婚。双方共が他のパートナーを持っていたこともあって、子供二人の親権を押し付け合う争いがルイの身体を蝕んだ。
 歳の離れていた逸はすでに就職して自立していた身だった為、それを機に兄妹二人だけの暮らしが始まった。何年にも及ぶ両親の不和、要らない子供としての扱いには、幼い心に大きな傷痕を築いた。その代償がルイの虚弱体質になって現れている。
 それでも、空虚な心の孔を悲しみだけで埋まらないようにしてこれたのは、逸との生活があったからだろう。ルイが逸に傾倒するのは当然の成り行きだった。
 ルイには逸がいた。友達もいた。
 ミウカにも、彼女が信頼し、彼女を救おうと述べられた手はあった。彼女はそれをとることに、躊躇うばかりだったけれど。
 強いのだと見せるのに長けているだけで、本当は誰よりも弱いのかもしれない。
 そんな答えが判ったところで、逸自身に助けになれることが多くあるとは思えない。少女もまた、逸を頼りにする境界線を引いている。踏み込むことは叶わない。
 異世界の史実の中で、銀髪の少年は言った。
 ――何でもかんでも引責しようとするのは彼女の悪い癖だ、と。
 だがそうしなければ生きてこれなかったのも事実。
 そして逸は、考える。距離は必要なのだと。
 この世界に来た目的を彼は知っているけれど、少女が自分を必要とする領域以上のことはしないようにと決めていた。それをするのは、逸の役目ではない。
 ただ、彼女が救いを求めるというのなら、自分に可能なことならば、力になろうと。




 手首の痛みはすっかり無くなり、部活動に復活していた莉哉は更衣室で帰り支度を完了したところだった。携帯電話のチェックをするとメールの着信があった。
 ミウカからだった。今日も図書室にいるから時間があれば講師願う、と。
 ぐったりと鈍重な動きで着替えを済ませてしまったことに舌打ちをして、大急ぎ図書室へ向かった。
 試合が近いこともあって、部員達の気合は相当なものだ。視界が悪くなるこの時間まで連日びっちり練習している。ミウカは帰ってしまっているかもしれないと思うも、全力疾走していた。練習でヘトヘトだった筈なのにゲンキンなものだ。
 駆けた勢いのまま図書室に飛び込み、急ブレーキをかけた。
 光景に、記憶が回顧する。――コウキに寄り掛かる、赤銅色を纏う少女。安心し、信用しきって眠る姿。
 自分は踏み込むことが出来ないと、跳ねつけられる空間。
 実際には、ミウカは逸に寄りかかってなどいないし、逸は隣の席でかったるそうに少女を見下ろしているだけだ。立ち止まった莉哉に視線を移し、逸は静かに言葉を放った。
「変にひねくれる前に言っとくけどな、」
「え…?」
 溜息と共に吐き出された言葉に戸惑う。逸は構わずに続けた。
「安心しきってるわけじゃねーぞ?」
 呆れた顔でミウカを指し示している。
「気にすんなっつってんのに、遠慮しまくりだ。こっちが苛つくくらいにな」
 勝手に気後れしているだけだ、とぼやく。一拍置き、それに、と続けた。
「容姿は似てるかもしれんが、別人だってコイツはちゃんと認識してる。ただの一度だって、それを誤ったことはねぇ」
 培い、あれほど研ぎ澄まされた感性が、ここまで削がれた理由は別にある。それは逸の口から言うべきではない。少女の決意を汲んでいれば、言えるわけもない。
 だからせめて、余計な誤解くらいは解いておくべきだと判断してのことだった。
「ま。座れや」
 トントンと指先で机を叩き促した。莉哉が腰を下ろすのも待たず口を開く。
「天文部の部長って、素路だったよな?」
「…はい。なにか」
 いきなり話題変更になった上に、脈絡のない質問に莉哉は訝しげに問い返していた。
「新しい顧問、俺になったから。合宿の予定とか立ってんのか?」
 逸はペースを崩さず端的に続ける。
「え?そうなんですか?」
 莉哉にとっては寝耳に水だ。前顧問から何の報知もない。もともと名前を借りてるだけの存在だったので、合宿の引率さえしてもらえれば誰が顧問になろうと差し支えなかったけれど。
「不満か?」
「いえ。滅相もない。…合宿の予定はありますよ。今年卒業した先輩が参加したいって言ってましたけど、いいですか?」
「問題ないなら俺は構わん」
「過去にも何度かありますから、支障ないと思います。歴代やってきてることですし。スケジュール煮詰まり次第、連絡します」
 外はもう真っ暗だった。校庭の部活動も終了して、いよいよもって静寂が降りてきていた。煌々と灯された蛍光灯の下、盛大なくしゃみが一つ響く。
 少女が、自身のそれに目覚めさせられ、もぞっと身じろぎした。
「ん…。寝て、た…?」
 もそもそと上半身を起こし、寝惚け眼で二人をそれぞれに見た。まだ目蓋が半分しか開いていない。眠そうに目をこするさまが可愛らしい。
「……莉哉…?…っ、くしゅっ!」
 莉哉は笑み崩れると上着を脱ぎ、肩を縮込めたミウカに掛ける。一瞬きょとんとしながらも、すぐにそれを手繰り寄せ、包まった。
「寝起きは寒いだろ。…今回は、返却しないんだな」
 莉哉の上着から伝わる温もりに包まれて、穏やかな顔をされると嬉しくなる。それを悟られるのは気恥ずかしく、思わず茶化してしまった。
 ミウカはまだ寝惚けているのか、のんびりと、けれどいたって真面目な口調を返す。
「こーゆう格好の時は素直に従って、と言ったのは莉哉だろ?」
 煩わしそうにスカートの裾を摘み上げる。すかさず逸が手刀で落とした。ついでに言葉遣いを諌めるのも忘れない。
「だろ、じゃないだろう?言葉遣いには気をつけろと、」
 ほけっと叩かれた手を見ていたミウカは逸を一瞥し、それから莉哉へと視線を置いた。逸の言葉を遮る。
「小姑みたいだろ?人には細かい。しかも、逸兄に言葉遣いの悪さは言われたくないよな」
 逸は神経質ではないのだが、昔気質なところがある。若年寄だ、といつもルイにからかわれる点だ、と付け加える。
「制服着るのなんて初めてだよな?」
「制服どころか、こっちの服全部初めてのばっかだよ。見立てはルイに任せっきりにしてたら、ひらひらしたのばかり着せられてる」
 ひらひらとは、いわゆる女の子らしい格好なのだろう。見たい、という要望が表に出ないようにした。ここに悪友二名がいなくて本当に良かった。
「制服でも違和感ないよ、似合ってる。パーティの時も可愛かった」
 真っ直ぐに言葉を向けられて、少女は照れ入る。
「あれは本気で恥ずかしかった。もう言わないでくれ」
 顔を隠すようにして莉哉の前に掌を突き出した。会場で所在無さげに、落ち着きのなくなった姿を思い出す。自分も正装させられ堅苦しい場にいても、有頂天になれたのはミウカのおかげだ。
 そしてもう一人。あの時気持ちが昂揚していたのは莉哉だけではなかった。
「タキの奴、嬉しそうだったよな」
「うん…。そうだな」
 記憶を引き起こし、ミウカは少し寂しそうに笑った。
 銀髪の少年の気持ちは、充分に少女には伝わっていたのだと、思わせる微笑だった。


[短編掲載中]