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予想していたといえば、していたことなのだが。
あまりにも想像通りの反応に、可笑しくなってしまう。逸の隣にいて、ミウカは笑いを飲み下す。
ぷうっと頬を膨らませ拗ねている妹に、逸は溜息を吐いた。さっきからの堂々巡りに少々辟易している。
合宿の日程が決まり、それの報告をしたところだった。ルイが退院している時期であれば、逸は引率を他の先生に依頼しようと考えていたのだが、合宿のある今度の週末はまだ入院中。合宿は一泊で行くので、週末に顔を出せない理由を黙っておくわけにはいかず話したのだけれど。
「俺、飲みもんでも買ってくるわ」
早々に立ち上がり身を翻す直前に、スツールに座ったまま見上げるミウカの頭をポンと叩いた。声にしない「あとは頼むわ」という意図が汲める。
この話題が持ち上がってからずっと逸が対応していて、ついに匙を投げ出した。
別に「連れていけ」と要求しているわけではない。「行かないで」と言ってるわけでもない。ただ「ずるい」の一点張りなのだ。
それの裏には「羨ましい」「寂しい」が見え隠れする。
両親がいなくなって以降、親代わりになった逸は多忙を極め、寂しい思いも随分してきた。幼心に刻まれた「我侭を言ってはいけない」というルイなりの教訓は、ミウカの出現によって崩れつつある。誰かに心を開くというのは良い傾向ではあるけれど。
現段階では度を越してはいないが、いつか手に余るようになったらと不安がないわけではない。それでも強く諌めることを、逸はしなかった。――出来なかった。
誰かに甘えられるという行為は、とても大切なことで。
幸いミウカは節度を見極めている。そのおかげで「甘え」が「我侭」に発展してはいなかった。
子供っぽく、すぐ拗ねることはあっても。
逸が出ていってもルイの頬は萎まない。仕方ないなぁ、といった感じでミウカは笑み崩れた。
「逸兄が顔見せてくんないと、寂しい?」
「ぜーんぜん!逸兄なんてほとんどこないし。ミウちゃんが来てくれるから、いいの」
勤務時間を大幅にとられることがないから、と選んだ職だった。だけどやっぱり面会時間内に終われない日もあるし、仕事をしていればみっちりというわけにはいかない。
ルイはちゃんと理解している。寂しいと口にしたことはない。
代わりになれるとは思っていないが、ミウカは逸が来られない分も見舞いにくるようにしていた。
病院はどことなく閉鎖的な場所だ。それでなくてもルイの年頃でちょくちょく学校を休むとなると、寂しさも倍増だろう。
強がってつんとした態度をとるルイの頭をそっと撫でる。
「ルイは偉いよね。逸兄も本当は寂しいんだ。でも素直じゃないから言わない。天邪鬼だからね」
ルイの表情が少しだけ軟化する。瞳が「本当?」と問い掛けていた。
「日曜日には顔出すから。お願いすれば参加も可能だったかもしれないけど、合宿みたいな知らない人が沢山いるところじゃ、ルイ疲れちゃうかもね。今度逸兄に連れてってもらお?」
「連れてってくれるかな」
「勿論。下見してくるから」
もう嬉しそうな顔になっている。本当は、素直に感情をばらまいても許される年齢なのに、ルイは他と比べて我慢する傾向がある。大好きな兄を困らせたくない、その一心なのだろう。
「そっか。楽しみだね」
「ん。イイコイイコ」
柔らかく撫でると、ルイはくすぐったそうに笑った。そしてついと窓の外へ顔を向ける。
「ど田舎の山奥だって言ってたけど、星いっぱい見えるのかな」
「たぶんね」
ラスタール南部のような空だといいな、と心の中で呟いた。たった数ヶ月離れているだけなのに、ひどく恋しく思う。
離れたいとさえ、思った場所なのに。
そう思うと嘲笑が零れた。
「空、といえば」
急な話の振りに「うん?」と顔を向けると、依然ルイは外に顔を向けたままだった。
「前の入院の時に知り合った人が、見掛ける度に空見てたなぁって思って」
「あたしがいなかった頃?」
ルイは思い出し笑いを洩らし、こっくりと頷いた。
◇
阻まれた空間に、また閉じ込められる日々が始まる。
短ければいいと毎回祈り、その度に裏切られてきた。そんなのは慣れっこだと言い張って強がってみても、周囲には呆気なく見透かされている。
ルイよりもずっと長く、退院しないでいる患者なら沢山いる。入退院を繰り返していればおのずとルイも顔見知りの仲間入りをするし、新しい入院患者はすぐに判る。
だからといって、いちいち気にかけたりはしない。
そんな中で『彼』はルイの目を惹いた。
最初はその容姿に見惚れてしまったのだ。たいてい彼を見かけるのは、病院の敷地内に設けられた遊具の無い、広い公園のような場所。検査に向かう廊下から見える景色の中に、木にもたれ掛かり、空を仰ぐ『彼』の姿を何度も見掛けた。
いつも、いつでも、朝も昼も夜も、不定期な時間帯に、彼はそこにいた。空を見つめていた。彼の時間は、その為に存在しているように。
どちらかと言えば人見知りなルイが、自ら出向いて知らぬ相手に話し掛けようとするなど、後にも先にもあれっきりだっただろう。
近づいてくる人の気配に、薄茶の瞳がルイを捕らえた。太陽が降り注ぐ午後のことだった。
陽に透けて金色に輝く髪の奥から覗く澄んだ双眸。自慢の兄以外に目を奪われるなど、今まででは有り得なかった。真っ直ぐな、射抜くような視線が、心をざわめかせたのかもしれない。
目線を置かれ尻込みしそうになっていたルイは、向けられた柔和な笑みに顔で小さく熱が弾けた。
「入院してるの?」
「えっ…あ、うん…」
先に声を掛けられてしまった。座りなよと隣を示され、笑顔につられてしまった。
ちょこんと体育座りをし、改めて顔を見る。遠目でも予想していたことだったが、端整な造りだ。
「長いの?入院」
「まちまち。…です。入ったり出たりだから」
「そっか。俺はね、ついこの前からなんだ」
だとすれば、彼は入院してすぐに、毎日時間の許す限りでここにいるということになる。
「空、好きなの?」
単刀直入というか、唐突過ぎるというか。目の前の顔が呆気に取られているのを見て、自分の発言がいきなりだったとルイは悟った。
昔からの癖なのだ。頭の中で考えてることの最終結論だけを、ポンと口にしてしまうことがある。
「えっと、なんで…かな?」
戸惑ってはいるが気分を害している様子はない。
「あの、ごめんなさい。えっとぉ…、あそこからね、ここがよく見えるのっ」
あそこ、と言いながら建物の二階を指差す。こちらに面しているのは廊下だ。ルイが検査室に向かう時に必ず通る路。
「いつもいるなぁって、気になってて」
「ああ、なるほど。上ばっか見てて、変な奴がいるなぁ、って?」
合点顔で茶目っ気を出している。のんびりとした空気を醸し出されているのだが、逆にルイは慌ててしまった。
「へ、変とかじゃなくてっ…その…、すごく悲しげに見えて」
「悲しそうに?」
彼は意表を突かれていた。まずかったかと咄嗟に後悔したのだけれど、次の瞬間には、目の前の端整な顔は相好を崩した。それからぼそりと零した声を、ルイは聞き逃さなかった。
ほんの少し困ったように笑い、彼は「見透かされちゃってたか」と呟いた。
ルイが『彼』に惹きつけられた一番の理由は、容姿よりも何よりも、奥底に隠されたモノを感じていたからなのかもしれない。それを知りたいと思ってしまって…。
時には泣きそうにさえ、見えたから。
「空がさ…どっかで、繋がってる気がして」
この空が、彼女の元まで――
優しく囁く声音は、空へ向かって放たれた。その先にいる『誰か』に伝えようとするように。
恍惚に囚われていたルイと再び瞳がかち合う。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。…俺の名前は素路莉哉」
少し照れ臭そうにした。またやらかした、と莉哉が心の中で呟いたのをルイが知る由もなく。その瞳にはルイには読み取ることの出来ない、懐かしさが滲んでいた。
「あたしはルイ。香椎ルイです」
「入院している間はたいていここにいるから、また話相手になってくれる?」
向けられた笑顔に笑みを返して、ルイは大きく頷いた。
莉哉が空を見ている時、ミウカもまた、ナラダの空を同じようにして見ていたかもしれない。そう思うと何だか不思議な感覚に包まれた。
異世界からきた彼が、同じだと言った空。どこかで繋がっている気がしていたのは、自分だけではなかったのだ。

[短編掲載中]