沈黙は圧し掛かるほどに重い。
 水を打ったように静まり返った室内で、一人の少女を取り囲むようにして、男三人が面を突き合せていた。合宿所で逸が使用している部屋だ。
 知らせを受けて部屋に駆け込み、静かに寝息を立てていることに胸を撫で下ろした莉哉は、少女から少し距離をとって座った。ミウカが目覚めた瞬間に、自分の顔を見られたくなかったからだ。
 諒から状況説明を受け、落ち着いてからずっと、考えていた。不安の淵を低迷している。
 黙りこくる逸の顔はコウキに責められている気分に陥る。あの時のように。
 ――何かが起きている。そして考えられることは、呪いの代償なのだろうか、ということだ。
 そもそも何故、ミウカはここにいる?
 本人は知らないと断言した。莉哉も追求はしなかった。核心に触れてしまえば、何かが壊れるような気がして怖かった。だが、避けてはいけないことなのかもしれない。
 諒は顔を向けもせず、少女を見つめたまま莉哉を呼んだ。無言で顔を上げる。
「貴奈津さんとは、仲いいんだよな」
「……まぁ、そうですね」
「俺は、お前の護りたい対象だと思っていたけど、当たってるか」
 どことなく棘のある言い方だった。諒にしては珍しい物言いだ。己に対して腹を立てていた莉哉はムッと眉を寄せた。つい諒を見る目つきがきつくなる。
「なにが言いたいんですか」
「話したことあったよな。俺は、大事なもん失くしちまったって。そうなってからじゃ遅いんだ。お前は、対象が明確で、願いも明確なのに、ちゃんと向き合ってないように見える」
 端的に、的確に、深く最奥に閉じ込めていた部分を衝かれていた。
 瞬間かちんときて、すぐに萎んだ。言外にある、後悔を叫ぶ諒の声が、聞こえた。
「みなまで言わなくても、お前なら判るだろ」
 じっとりと、けれど確実に、頭に血が昇る音を聞いた。この怒りの矛先は自分だ。巧くことを運べない自身への、浮かれて甘い考えに逃避していた己への、怒りだ。
 もっと真剣に、ミウカが傍にいることの意味を意識するべきだった。逃げずに、向き合うべきだったのに。
 急変した場の空気、切迫した拮抗状態。それを破ったのは掠れる声だった。
「やめ…ろ。自分は、大丈…夫だ。……もう、騒ぐな」
 混濁した意識の中から紡がれた言葉――少女の意識はナラダに戻っていた。
 目覚めの片鱗は見えない。ミウカの気質が反応しただけ。
 握り締めた莉哉の拳が、白く、力を込めた。


◇◇◇


 しんとした廊下に足音が等間隔で響いていく。
 観測時間を終了し、各自それぞれの時間を過ごした更に後。深夜の時刻に逸は懐中電灯片手に、宿舎内の見回りに出ていた。
 酒の類の入らない宴会もどきを終えた部員達も、流石に寝静まっている。顧問抜きの秘密裏に執り行われている場だが、掌握していた。見て見ぬふりをしてはいるが。
 それも終わったであろう時間帯に見回りを開始した。念のため、である。例えば羽目を外しすぎた者がそのへんに転がっていては困るからだ。
 足音だけがある中に、水音が割り込んできた。歩みを止め、耳を澄ます。空耳ではなく、確かに流水音だった。音がする方向と、水が何かに当たっていることで、簡単にあたりはつけられた。調理室だ。
 見回りを開始した直後にはなかった音だ。聞こえる限り、結構な勢いで蛇口は開かれているらしい。
 家で出しっ放しなんかしたら、ルイに怒られるところだな。
 微苦笑を洩らし、調理室へと足を向けた。

 調理室は、廊下側の壁の上半分はガラス張りになっている。近づいていけば室内が見渡せた。
 廊下から見える室内に、人影は見当たらない。電気は点いておらず、だが晴天に浮ぶ満月の光が、薄暗く室内を照らしていた。
 なるべく音を立てないように引き戸を引き、踏み入る。調理台と調理台の合間にしゃがみ込んでいる人影を見つけた。そのすぐ近くの蛇口が全開になっている。
「誰か、いるのか」
 刺激しないよう、静かに声を放った。うずくまる影は顔を上げないまま、ビクリと反応した。そしてますます身を縮めた。まるで怯えているみたいに。
「誰だ」
 返事はない。奇妙な沈黙だ。緊張が走る。慎重に近づき、蛇口をひねる。きゅっと音がして数滴の余韻の後、流水は止まった。改めてうずくまる影を見、すぐに正体が判明する。
「ミウカ」
 再度ピクリと反応するも顔を上げない。
「どうかしたか」
 しゃがみ込み顔を覗こうとするも、顔が見えないようにして丸まっている。腕で覆い、隠すように。
「ミウカ?」
「な…んでも、ない…」
 頑なに腕で顔を覆っているのを、逸は無理矢理引き剥がした。拍子抜けするくらい、抵抗はなかった。否、抵抗するだけの力が入れられなかったのだろう。
 それでも最後の抵抗とでもいうのか、ミウカは視線を床に置いたままだった。俯いていることで、髪がその表情を隠している。掴まれた腕も手首から先が重力に従い、指先が下を向いていた。
「喉、がね…渇いたから。部屋にすぐ、戻るから」
 少しも誤魔化しきれていない。具合の悪さは一目瞭然だ。逸でなくても、ただならぬ状態だと見て取れる。空いてる片方の手が動いて、少女の細い指がシンクの縁を掴んだ。指先に力を込めるも、空しくずり落ちる。
「――また、なのか?」
 今にも崩れそうなミウカの細い肩を支える。暗くてよくは見えないが、そんな状態でも判るくらい、顔色はすぐれない。
 少女はふる、と首を振った。次の瞬間には小さく目を見開き、激しく咳き込んだ。鎮まるまで見守るしかなく、逸は優しく背中をさすっていた。数秒が数分にも思えて、あまりの激しさに華奢な身体が折れてしまいそうだった。
 ようやと落ち着くも、ミウカは依然口を覆ったまま俯いていた。すぐに動くのは厳しいのだと待つ。だが、数分過ぎても体勢を変えない。いくらなんでもおかしいと、強引にミウカの手を掴んだ。今度は若干の抵抗はあったのだが、些少なものだった。
 掌に残されたもの。逸の瞳がそれを捉え、愕然とした。
「いつからだ」
「…いたいっ…!」
 語調がきつくなり、併せて、ミウカを掴む手に力が入った。慌てて力を抜くも、逸は手を放さなかった。
 掌に、血がついていた。
「……いつからだ」
 もう一度、静かに言った。真摯な瞳を向けられて、少女は観念して息を吐いた。逸には聞く権利がある。ミウカには正直に話さなければいけない義務がある。
「こっちにきて、すぐ。…症状は出ていた。最初は軽かったんだけど。でもしょっちゅうあるわけじゃない。ほんとに、たまに…」
 続けようとした言葉を飲み込んで、ミウカは閉口した。ごめんなさい、と言おうとしたのが、判った。
 逸は優しく細い肩を両手で掴かみ、真っ直ぐに目を据えた。
「隠したいんだろ?」
「…逸兄…?」
「お前がそうしたいってんなら、俺は全力で覆い隠してやるよ。…だから、俺には隠し事すんな。一人くらい、拠り所を作れ。目的果たす前に、尽きるつもりか」
 少女は無言で、見つめ返す。
 自分に似た容姿を持つ銀髪の青年も、幾度となくこの目の前の表情を向けられてきたのだろうか。
 そう思うと少し、腹立たしくなった。
「少しは頼りにしろよ」


[短編掲載中]