闇夜に散りばめられた星が、強く弱く、瞬いていた。
「ナラダの空に似てるな。そっくりだ」
 赤銅を纏っていた頃と同じ口調でポツリと呟く。ミウカは一人、川の傍に座っていた。
 月明かりに照らされ、水面をキラキラと反射させながら流れている。なだらかなせせらぎに、目蓋を伏せた。
 とっておきの場所があると教えてくれたのは、逸だった。
 実は常汪高校天文部のOBでした、なんてことを、逸は観測の時間につらっと零していた。隠してたわけじゃないがわざわざ言うことでもない、と彼は言い放っていたのだが、そういう理屈はちょっと違うのでは、と思ったことは口にしなかった。
 あとで抜け出してその場所を教えてやると言ったまま、結局抜け出す機会を逃して逸が案内してくれることはなかったのだけど、聞いていたパーツを組み合わせつつ探検していたら、案外あっさりと見つかった。
 夜もだいぶ更けた時間でもあり、人気は皆無だった。一人になりたかったから丁度良かったと、大きな一枚岩に腰を下ろした。
 調理室で発見され、部屋へと戻された後、どうしても寝付くことが出来なかった。逸が口にしようとして飲み込んだ疑問を、頭の中で幾度も反芻している。
 《聖珠》を護る為に費やしている意識の糸。紡ぎ続ける為に、自然の総てから少しずつ力をもらって成立させている。
 こちらの世界ではナラダほどそれが容易くなく、ミウカは己の精神を犠牲にして継続させていた。その影響は顕著に身体へ反響している。
 普段ミウカが生活圏としている場所には、至純な力を分けてもらえることが不可能で、無理をせざるを得ない。だが、ここは違う。溢れんばかりの自然がある。
 なのにああして、ミウカは崩れた。
 ――それほどまでに、限界が近づいているということか。
 まるで自分のことのように逸は表情を歪ませ、そう言った。
 部屋まで送り届けて「おやすみ」を言う代わりに、「今度一人で抱え込もうとしたら、承知しないからな」と凄んだ。
 ほんの少し茶化し、でもミウカを見つめる双眸には真剣な色が宿っていた。
「なんの脅しなわけ?」と冗談まじりに返答したら、おでこを小突かれたのだが。
 いつだって逸は、ルイ同様に妹扱いをする。面倒見がいいのは彼の性分と言えるだろう。
 そんな人に巡り逢えて、幸せだと思う。同時に、申し訳ない、とも。
「欲張りすぎてたのかもしれない」
 一人だけの空間。誰もいないから、弱音も吐けた。傍聴者のいない独白。
「大切なものが多すぎて、なのに総てを護りたいだなんて、願ってしまったから」
 仄明るさに照らされる少女は儚く沈んでいる。
 ミウカの掌が、何かをすくう仕草をとった。それから、ぎゅっと握り締める。そこには何も無かった。けれど、ミウカの目に映っているものは、確かにあった。
 目の奥が熱くなる。誰の目もないのに、必死に飲み下し堪えた。それだけは己に許さない。
「欲張りすぎて…、指の隙間からいとも簡単に零れ落ちていった。この手に残ったのは、ほんのひと握りだけ」
 今もまだ、これからもずっと、場所を変えてもどこの世界にいても、少女に残る記憶は永遠に責め続ける。ミウカがそれを己に課す。
 同じことを繰り返している。もどかしいくらいに不器用に生きる術しか、少女は知らない。
「あれ。先客?」
 どこかで聞いたフレーズだ。背後から声を掛けられ、またもや人の気配を察知出来なかったことに胸の内で舌打ちする。
「諒先輩…」
「覚えててくれたんだ。嬉しいね」
 屈託ない笑顔を見せ、ミウカの座る岩の下まで歩み寄る。これも以前のと同じ位置関係だなと思いつつ、身体を正面に向け座り直した。それでもやっぱり見下ろす形になるのが居心地悪く、降りようかと動こうとして、手をあげた諒に遮られた。
「いいよ、そこにいて。ね、隣行ってもいいかな」
 ミウカに警戒心などなかった。莉哉が信頼し慕っている相手だ。ならば、不要なものだ。戸惑いがちに頷くと諒は身軽に岩を登ってきた。
 ほどよい間隔を開け腰を下ろすと、柔和な雰囲気が伝わってきた。本人が意識しない、気質が漂わせる柔らかさ。
 倒れた時の対応に礼を述べて、ふと疑問が口をついて出ていた。
「あたし、邪魔じゃないですか?」
 まともに口をきくのは初めてだった。莉哉に紹介されて、互いに挨拶を交わした程度だ。ボロが出ないかと余計な懸念まで湧いてしまう。
 諒はふっと口元を綻ばせ、小さく笑った。
「なに言ってんのさ。邪魔しに入ったのは俺の方でしょ。貴奈津さんはこんな所でなにしてんの?宿場から近いと言っても遅い時間だし、危ないよ」
「そう、ですよね。えと、ちょっと一人で考えたくて…」
「わ。ますます俺、邪魔してんなぁ…。ごめん」
「いえっ。あたしの方は気にしないで下さい」慌てて顔の前で手を振った。
「諒先輩は眠れないんですか?」
「合宿に来る度、この場所にくるんだ。卒業した身だけど、無性に来たくなってさ。莉哉に無理きいてもらった」
 そう言って夜空を仰ぐ横顔を見つめた。ひどく寂しげに見える。
「ここに、なにかあるとか…ですか?失くしたもの、とか」
 ミウカの問い掛けに、瞳が揺れた。だが動揺が見えたのは一瞬で、すぐに元の空気を取り戻し、ゆっくりとミウカを見た。
「どうしてそう思うの?」
「…なんとなく、です」
 責められてるわけではない。それはミウカにも重々判っているのだが、どことなく所在無い気持ちになった。中核を見事貫いてしまったらしい。
「鋭いね。まさにその通り。…失くしてしまったものがあるみたいなんだ」
「みたい?」
 まるで他人事の言い方だ。諒は困ったように笑う。
「自分のことなのに、判らない。『それ』がなんであるかも、本当にあったのかも。変な話だろ?」
 ふるふると首を横に振った。諒の瞳はどこまでも真剣だ。そこに偽りはない。
 再びミウカから空へと視線を移し、そのまま倒れるようにして寝転がった。
「なんでかな。変な奴だって思われるのがオチだから、今まで近しい人にしか話たことなかったのに。会ったばかりの君に、なんで話しているんだろうな」
 独り言のようで、問い掛けのようで、返答し兼ねていると、諒はふっと笑み綻んだ。
「んなこと言われても困るよな。まぁ、とりあえず。…ここの空気の所為にしておくか」
「巧く言えないですけど…判る気が、します。不思議な気分になりますよね、ここにいると。初めて来た場所なのに、ひどく懐かしく思えるんです。だから、先輩を変だとは、ちっとも思わないです」
 逢いたいと願う人に、逢える気がする。そんな気分にさせてくれる場所だ。
 諒は、ミウカの断言に呆気にとられ、でもすぐに気を取り成した。
「うん。そういうことにしておこう」
 大袈裟に納得顔を作り、一人大きく頷く。場を盛り上げるのを得意としている人だというのは、先の宴会もどきで立証済みだった。
 ミウカも諒にならって寝転がり、遮るものの一切ない、天然のプラネタリウムを仰いだ。
 瞬く無数の光を見つめていると声が聞こえてきそうだった。
 永遠に逢えない、けれど、ひどく逢いたいと願う人の声が…。




 翌日、合宿所を出発するまでの空き時間を、各自自由に過ごしていた。
 観測場に使用している建物に面した広場の端で、ミウカは日陰に座り、ボール遊びに興じるメンバーを眺めていた。
「莉哉も遊んできていいよ?」
 ミウカの隣を陣取る莉哉に、軽く呆れ顔を見せた。
「いいよ。ここでのんびりするし」
 さきほどから似たり寄ったりの遣り取りを繰り返している。
「邪魔か?」
「そういうわけじゃないけど…」
 頑として動こうとはしない。諦めて莉哉に向けていた顔を戻そうとして、
「危ない!!」
 声に反応して、瞳がそれを捉えた時には、避けられないところまで迫っていた。これまでのミウカであったなら、とうに察知していた。だが現状で、反射的に動くことも叶わない。
 引力に引かれ、直後、ばしんと衝突音が間近でした。ミウカに痛みは落ちてこない。
「あっぶねぇな!気をつけろって!!」
 怒号にも似た莉哉の声が耳の傍でする。飛んできたボールを片腕で弾いて、もう片方の腕でミウカを引き寄せていた。
 力強い温もりにすっぽり覆われている少女は、ゆっくりと顔を上げた。莉哉はまだその腕にミウカを抱き締めたまま。
「ありがと」
 もぞ、とミウカが動いてようやく、自分のとっている体勢に気づかされ、慌てて離れた。
「わわ、ごめん。ぶつかってない?」
「大丈夫。莉哉は痛くない?」
「平気。ったく、いきなりびびるっつーの」
 近くに転がったボールを、ノーコンで飛ばしてきた連中目掛けて蹴り返す。莉哉がそうすることで出来た距離に息をつき、ミウカは周りに悟られないよう目をしばたたかせた。
 ボールが飛んできた方向――左目の視力は殆ど役に立たなくなっていた。


[短編掲載中]