光が拡散し、彼は消えた。
 少女は目尻に残る余韻を拭い去り、心の中でもう一度礼を述べた。『波紋を投げ掛ける者』としての役目を果たし、彼は自分の世界へと還っていった。
 安堵する傍らで、寂然感が込み上げてくる実情に愕然とした。
 大切な人やものを護る為に費やしてきた時間。産まれ落ちて以来、胸の内に存在し続けた責務。それらが今、決着を迎えた。
 【赤銅の宿命】からも【呪い】からも解放され、救われ、導かれ、新たなる生命を与えられた――
 失ったものは数知れず、総てを望むままに護り抜くことは叶わなかった。その現実に対峙した瞬間、張り詰め続けた糸がぷつんと音を立てて、切れた。
 やるべきことは山のようにあるというのに、そのどれをも行なう気力が起きず、茫然と空を見送っていた。己の心を叱咤する気力すら、欠片も残されていなかった。
 重力に従うままに、碧空から視線を地へと移した時、足元に転がる球体を見つけた。
 莉哉の双眸によく似た色を宿すそれ。
 『波紋を投げ掛ける者』がここにいた証にと、残されたものなのかと思った。けれどそれは、球体に触れた途端、己が勝手に抱いた淡い期待でしかなかったことを知った。
 強い衝撃と共に流れ込んできた映像。
 断片的であり、連続的であり、眩くも暗くもあった、一瞬の映像。とりわけ強固に掴むことが出来た一つが、ミウカを不安の闇へと突き落とす。
 急激な眩暈に襲われ、膝から力が抜け、カクンと崩れ落ちた。
「ミュウ!?」
 立ち尽くし思考に囚われていたミウカに代わって、タキは離れた所ですでに後処理の指揮を執っていた。異変に、慌てて駆け寄る。
 へたり込んでいた少女は俯いていて、必死な形相のタキに対して無反応だった。
「大丈夫か!?」
 ほんの数秒前まで、凛乎たる態度で現場を仕切っていたとは到底思えない、うろたえようだった。ぎこちなく首を巡らせ、しゃがんで目線を合わせたタキを見た。
 少女の瞳に困惑が色濃く映し出され、揺れている。
「それ…なんだ?」
 膝に置かれた少女の、両掌に包まれている珠を指す。なめらかで曇りなき透明なそれの内部で、光がたゆたっていた。
 ミウカはようやとタキの言葉が届いたように反応し、かぶりを振った。
 そして切なげに痛みを伴って、その表情を歪ませた。
「リイヤ…」
「ミュウ?どうした?」
 尋常ではない様子に、タキの背中に冷たいものが滑り落ちた。
 ぎゅっと珠を握り締めるミウカは血相を変え、「城へ戻る!」と駆け出した。




 残された珠の正体は、王室付占者――ターニアによって明らかにされた。
 莉哉が戻っていった時を同じくして、彼女の《透察眼》はミウカと同じものを見ていた。
 運命をまっとうした者の、本当の終焉を。
 ターニアはそれを《聖珠》と呼んだ。《聖珠》は莉哉の《魄》が具現化したものだと説明した。
 『波紋を投げ掛ける者』が集結し放った波紋の代償が――莉哉の“消滅”だった。
 彼が己の身を犠牲にしてまで護ろうとした世界――ラスタール。元の世界に無事に戻れたとしても、それは一時だけのことだった。
 『波紋を投げ掛ける者』がその役目を貫こうとした代償が、ないわけはなかったのだ。それが残された《聖珠》だった。
 救う方法は一つだけ。莉哉が失った《魂》と《魄》を彼の中へ戻すこと。
 ラスタールに残された《魄》である《聖珠》と、対となる《魂》を見つけ、共に戻さなければいけない。どちらが欠けても消滅は避けられない。
 そして、時間がなかった。

 その“時”は、刻一刻と近づいている。


「手段は?そこまで判っているのなら、救う方法も判っているのだろう!?」
 少女は声を荒げターニアに喰って掛かった。
 頭の中が混乱していた。手のつけようのないほどに乱れていて、冷静さが欠けた。
「申し訳ありません…」
 呟き掠れた声だった。逸らすターニアの顔を凝視する。
「無いと…言うのか」
「現段階では断言できません。明確なのは時間が無い、という事実のみで」
「調べられるか?」
「努力します」
「頼む。ターニアだけが頼みの綱だ」
「承知しました」
 まるで自責の念に駆られるように、深く頭を垂れるターニアの姿に、ミウカは幾らか自若を取り戻す。なかなか頭を上げようとしない彼女に対して恐縮し、低頭の停留を促した。
 タキは壁に背を預け、腕を組んで動向を眺めていた。ターニアの私室にはこの三人しかいない。
 彼は入室から以降、終始傍観を決め込んでいた。渦巻く感情の波を整理し切れずに、必死になる少女に対する苛立ちに、ひたすら黙する選択をした。口を開けば望まない言葉を吐露してしまいそうになるからだ。
 微かな音が室内に響く。注意していなければ聞き逃してしまうほどに、小さな音。だが背筋を凍らせる不快音。
 《聖珠》へと視線を落とした少女の瞳が硬直した。内部でたゆたう光源が弱まり、一筋のヒビが刻まれた。
「なっ…!?」
 逡巡している暇など無かった。本能が咄嗟に反応する。
 【赤銅】の能力が無くなったことを忘れ、意識を集中する。【保護壁】は紡ぎ出されない。焦燥だけが駆け巡った。
 見つめる先の光が、徐々に輝きを失っていく。ヒビがその範囲を広げていった。
 どうすれば…!
 思考が混雑に閉ざされそうになった時、ふわりと何かがミウカに降りてきた。そして見えない形となって《聖珠》を包み込んだ。
 それはミウカが創り出す【保護壁】じゃない。だが、ヒビの侵食は停止し、輝きも元に戻った。
 こうしていれば、護れる?そういうことなのか?さっきの感覚は一体…。
 スウッと頭のてっぺんから、温度が削がれていった。目眩が起こり、視界が大きく歪んだ。
「ミュウ!!」
 タキの腕がかろうじて少女の身体を抱き留め、床に落ちるのを防いだ。
「……すまない」
 支えられ体勢を持ち直すも、タキの腕はミウカを放そうとはしなかった。
「休めよ。君の身体がもたない」
 彼にしては稀有な物言いだ。厳しく、有無を言わせない気迫。
 ミウカにしても逆らえるほど、体力に自信がもてなかった。闘いを終えたばかりなのだ。
「そうする。悪いが部屋まで手を貸してもらえるか」
「そのつもりだ。…ターニア、《聖珠》の件は任せていいな」
「はい」
 深く頭を垂れたターニアに見送られ、二人は部屋を後にした。
 その日から、ターニアに《聖珠》を見せる時以外、それは少女の手の中にあった。離そうとはしなかった。自分こそがそれを護るのだと、明示するように。


[短編掲載中]