先のことを思えば、不安がなかったわけではない。けれど路が啓かれるというのなら、無駄にはできなかった。微かでも可能性があるのなら、賭ける決意を固めていた。
 陽が昇り、徐々に暖められつつある早朝の清涼とした空気が、少女を纏う。身支度を整えた少女は、幾度も訪れたことのある部屋の扉に対峙し、深呼吸した。自然と背筋が伸びる。
 控えめにノックする。回廊に音がこだましていった。反応はない。だが室内の人物が起きている気配は確かにあった。
「……タキ…?」
 そっと呼び掛ける。返事をしない気持ちは汲めるから、両手を沿えミウカは扉越しに話し掛けた。
「そのままでいいから、聞いてくれ。これまで主従の立場で対等に扱ってくれたことに、感謝する。意見を対立させてばかりですまなかった。…ずっと傍にいてくれて、タキがいてくれて…本当に感謝している」
 これは意思表示だった。誰が止めると言っても聞けないのだと宣言している。決めたことを貫くのだと。
 相手が誰であっても少女は同じ選択をしただろう。莉哉だからとかタキだからとかは無関係だ。
「こんな…なに一つ明確な道標がない状態で言うのもおかしいが、判っててほしくて」
 望むままに路が啓かれたとしたら――もしも向こうへと渡れたなら、きっと戻ってはこられない。
「勝手ばかり言う。…自分はタキを、忘れない。そのことを知っていてほしい。大切な人だ。――それは、永遠に変わらない」
 そっと、少女の指先が離れた。数秒無機質な扉を見つめ、身を翻す。後ろ髪引かれる思いを抱え込み、重い足取りで歩き出す。心が深く沈んでいた。
 最後まで勝手ばかりだ。
 胸の内でもう一度謝り、離れ難い気持ちを振り切って歩調を速めた。が、数歩も進まないうちに扉が壁に衝突する音に足を止める。勢いよく開け放たれたそれは、びりびりと振動の余韻を残した。
 ミウカの意思で振り返るよりも早く、腕を掴まれ、引力が身体の向きを変えさせる。
 朝日に反射する銀髪と、澄んだ碧眼が揺れていた。
 対顔したのは一瞬で、引力は止まらず、一段階強いそれにされるがまま、気づけば少女は温もりに抱き締められていた。
 これまでの戯れとは異なる、力強く脆い、温もりだった。
「必ずっ…!必ず還ってこい…っ!!」
 声が震える。感情が伝播する。
 返す言葉を巧く掴めなくて、少女は胸に顔を埋め、きゅっと抱き締め返すしかなかった。


 少年は、兄を尊敬していた。本当に、心から。
 非の打ち所のない兄を羨望することはあれ、妬むことなどなかった。あまりに偉大で、追いつきたいと願うことすら、愚考に値する。
 多くを望む気は皆無で。兄に絶大な信を置き、並んで歩んでいく少女共々背後を護れれば、それでよかった。同じ距離感で傍にいられればよかった。
 だが、有形物は元より、無形物でもいつしか崩れるものなのだ。変化を望む望まないに関わらず。
 ――兄は、もういない。
 次代を背負っていくのは自分しかいないのだという、巨大な精神的圧力は彼を圧迫していた。だからこそ、不安が常に付き纏う。
 少女の下そうとする決断が、彼には容易に想像できた。
 決意を挫いてやりたかった。兄に遠く、足元にも及ばないとしても、少女の隣に並びたいと願った。
 流転の濁流に呑み込まれず、統御していけるのだろうか。そんな益体も無いことばかり考えている。だから彼女に、傍にいてほしいなどと弱気にもなるのだ。危うい思考など、拭い去るべきだ。
 彼女を縛り付けてはいけない。
 今こうして己の腕の中に少女はいるのに、いない。タキは『虚』を抱き締めていた。
 謝るな。礼など言うな。僕は自分のしたいようにしてきただけだ。

 だから、これきりみたいなことを言わないで――

「ミュウ…」
 確かめるように、掴み取ろうとするように、タキは優しく力を込めた。


[短編掲載中]