名前を呼ばれるよりも先に、刺々しい視線が突き刺さり顔を向けた。近づいてくるクラスメイトの顔には尖がった色が含まれている。朝香と付き合っていた頃に向けられていたのと、同類のものだ。
「素路、客」
 ぶっきらぼうな物言いに、談笑していた成澤と井塚も呆れた表情でそのクラスメイトを見上げた。
 背後を指す親指をなぞって廊下の方角を見遣ると、遠慮がちに顔だけ覗かせているミウカがいた。立ち上がった莉哉の動作を追い掛けるクラスメイトの視線には「なんでお前ばっかり」などという、ひがみ的ものが感じられた。
 たぶん、ついさっき尋ねてきていた朝香の分も含まれているのだろう。
 別段やましいことはないし、ミウカは朝香の顔まで覚えていないだろうから構わないのだが、二人が鉢合わせなくてよかったと胸を撫で下ろし、急ぎ少女へと向かった。
 出入口まで莉哉がくると、なんとなく所在無さげだったミウカの表情が和らいだ。こんなちょっとした変化に、内心では一喜一憂しているとは気づいてもないんだろうな、と自分を見上げる少女を見て思う。この手のことには、とことん鈍感だ。
「三年生の方にくるの、ちょっと勇気いるな」
 ナラダで縦横無尽に剣を振るっていた人物が言う台詞とは思えない。莉哉が驚いている間にミウカは続けた。
「すごい視線を感じる。やっぱ一年生がこっちにくることって、珍しいか?」
 君だから注目を浴びるんだ、とは言えなかった。本当の理由を本気で判っていない。言ったところで信じないだろう。無防備で可愛いと思ってしまう。
 こうして逢いにきてくれるのを、みすみす失くしてしまうのは勿体無いので、今度からはメールでいいよ、という提案はしないでおこう――と、よこしまなことを考えている内に、ミウカは莉哉の横からひょいと顔を出して、教室内に向かって手を振っている。振り返している、という表現が正しいか。
 背を向けていても、成澤と井塚がこっちに向かって手を振っているさまが目に浮かんだ。子供じみているのは百も承知で、莉哉はミウカの視界を遮るように身体をずらす。
 ミウカの双眸が莉哉だけを捉えた。
「ところで、用でもあった?」
「放課後空いてないか。ルイのとこ行こうと思ってるんだけど、一緒にどうかなって。ルイ、逢いたがってたし」
 ルイから聞いた「空ばっか見てる人」イコール莉哉だと判明し、それぞれ当人達にも確認はとれている。展開として、ルイが逢いたがるのは自然の流れで、前々から機会が合えば一緒にいこうと約束していた。
 今日は学期末テスト最終日で、通常の授業より早く終わる。部活の助っ人もないと事前に言っておいたから、誘いにきてくれたのだろうけれど。
「あー…、悪い。先約あるんだ」
 歯切れ悪い返答になってしまった。さっき朝香と約束したばかりだ。話があるからどうしても、と。彼女にしては珍しい粘り強さに押し切られていた。
「謝る必要ないだろ。急だからな」
「次は絶対、な。嫌がってるとかじゃねーから」
 思わずムキになっていた。はっと我を取り戻した時にはすでに遅く、目の前のミウカが疑問符を浮かべつつ「うん。判ってる」と小首を傾げた。
 言えば言うほど墓穴を掘りそうな予感を抱えていても、口が勝手に動きそうになって、――両肩にずしりと重みが乗った。
「なぁに必死になっちゃってるわけ?」
「もうすぐチャイム鳴るよ、ミウカちゃん」
 悪友二名の声だ。揶揄したのが成澤で、ミウカに話し掛けたのが井塚。
「お前らっ」
 余計なことを吹き込まれる前に、追い払うが得策。と思ったら、井塚の忠告にミウカがぴょこんと跳ねた。
「えっ、やばい。次移動教室だっ」
 慌てふためき「またね!」と三人に向かって手を振り、バタバタと去っていく。消化不良感が残ったが、引き止めるわけにいかない。
 姿が小さくなるまで見送っているうちにも、何人かの視線が少女を追い掛けた。うち一人に声を掛けられ、走りながら笑顔を見せていた。あの様子だと以前にも声を掛けているように見受けられる。
「ここんとこ、シワ寄ってんぞ」と井塚は眉間を指先で叩いた。
 続いて成澤が「お前がこんなにやきもち焼きだったとはねぇ」と揶揄する。
 阿呆言うなと抗弁しようとして、さっさと逃げられた。


◇◇◇


 ありがとうございましたぁ、と元気な声に送り出されて、ミウカは小さな花束を手に、花屋を出た。全体的にまるっこく形を整えた、暖色系でまとめた花達。ルイの喜ぶ顔を思うと自然と口元が綻んだ。鼻先に持ち上げると柔らかい芳香が鼻腔を満たす。
「あれ…?」
 向けられた声に、ついと目線を上げた。そこに立っている人物を見た瞬間、いつか見た、待受画面を思い出していた。――二つ並んだ笑顔。小さな画面の中で寄り添う二人。
 あの時は、彼の持っていたものが携帯電話という名称だということさえ知らなかった。画面に写っていたままの位置関係で、ミウカの目の前に立っている。けれど、その表情は違っていた。
 戸惑い、少しの焦燥を浮かべているのは、ミウカも知っている人物――莉哉だ。
 苦虫潰した顔の莉哉とは対照的に、喜色を顕わにミウカの正面まで近寄り笑い掛けてきたのは、莉哉の元カノ――朝香。笑顔は画面の中の彼女と同じだった。
 数歩後ろに取り残されたままになっていた莉哉は、ますます戸惑いを濃くした。
「あの時は本当に、ありがとう。ちゃんとお礼も言えないままになっていたから、ずっと気になってたの」
 間近で聞く平常時の彼女の声は、想像通りの可憐な響きだった。容姿に引けをとらない可愛らしい声だ。ミウカも笑みを返した。
「いえ。気にしないで下さい。にしても、同じ学校だったんですね」
 ミウカは知っていて常汪高校へ入学していたが、素知らぬフリをする。ややこしい事態を招くのだけは避けたい。
「みたいね。学年が違ったら会う機会もほとんどないし。…ね、ずっと聞いてみたかったんだけど。なにか習ってたりするの?」
 あたしも護身術とか習った方がいいかなぁ、などと呟きながら、たどたどしい感じでボクシングのポーズを真似ている。
 初対面の彼女は全身で慄いていた。状況が状況なだけに仕方ない。だから、覚えられていたのには正直驚いた。記憶があやふやになるほどには錯雑としていなかったということか。
「知り合いなのか」
 ようやと気持ちの舵を取り戻した莉哉が、朝香の横に並んだ。
「前にね、変なのに絡まれた時に助けてもらったの。ほんとすごかったんだから」
 ファイティングポーズをとったまま、無邪気に朝香は隣を見上げた。朝香からミウカに莉哉の視線が移って、瞳がかち合った。ミウカは無言で頷く。莉哉の表情に浮かんでいる疑問に、気づかないふりをした。
 ミウカは朝香のことを忘れてはいなかったし、自ら赴いて助けたのは朝香だったからだ。
 でなければ、逸の言うことを聞いて、人を呼ぶという選択をしていた可能性は高い。精神力だけでカバーするには、きついところまでミウカの内部は削がれていて。短時間で決めてなければ危なかったのは、ミウカの方だった。
 己が自覚するよりもずっと、内奥侵犯は高速だ。思い通りにならないことがひどくもどかしく、【赤銅】の宿命に囚われていた頃を連想せずにはいられない。
 少女の状態を語られずとも、逸は把持していた。そして知らんふりをしながら、先回りして憂えてる。だからあの時、逸は止めたのだ。
 余計な言葉無しに制止することも、見透かしているのにそれとは悟られぬように立ち回るのも、そっくりだと皮肉な笑いが込み上げる。別人なのに、類似する。
 どんなに少女が巧く繕い、周囲の目を誤魔化しても、コウキには通用しなかった。逸もそうなのだ。
 二人と対峙しているのはどことなく居心地悪く感じてしまい、早々に辞去しようとして会釈するミウカに、朝香は再度礼を述べた。恐縮し「もうほんとに、気にしなくてもいいですから」と胸の位置で手を振った。
「それ、ルイに?」
 莉哉の話し掛け方は咄嗟に引き止めようとした感じだった。ミウカの仕草に合わせて大きく揺れた花束を指している。
「うん。可愛いでしょ。ルイっぽいかなって」
「喜ぶだろうな。…今日はホントにごめんな。ルイに宜しく言っておいて」
 そんな言い方では朝香が気にする、と思ったがミウカは口を噤んでおいた。余計なことは言わないに限るし、ミウカが干渉していい領域ではない。
「了解。ちゃんと伝えておく」
 今度こそ行くよ、という矢継ぎ早な所作も、遮られてしまった。
「そういやさ、今日の体育授業、見学してたよな。体調でも悪いのか?」
 本当はミウカが教室を訪ねてきた時に聞きたかったことなのだが、悪友二人に阻まれタイミングを逃していた。
「あー、あれね。サボリ。ゲームのやり過ぎで、寝不足なんだ」
 内緒だよ、と付け足す。可愛らしく片目をつぶったりするものだから、莉哉は二の句が継げなくなった。
「ならいいけど」
「うん。…じゃあ、行くね」
 手を上げ、今度こそミウカは身を翻した。
 進む距離に比例して、無意識に歩く速度が速まり、病室に着く頃には軽く息があがっていた。意味も無く己に急かされた感があり、言葉では言い表せない不快感が残っていた。


[短編掲載中]