どうかしたの、とルイに問い掛けられたのは、スツールに座り、呼気と心音が通常に戻りつつある時だった。ミウカが選んだ花をひとしきり喜ぶさまを、微笑ましく見守っていた時の、唐突な質問だった。
「どうかしたの?」
 問いの真意が判らず、ルイの質問をオウム返しした。
「なんか、変。いつもと違うよ。学校で嫌なことでもあった?」
「なんもないよ。学校にはだいぶ慣れたし。まぁ、勉強は大変だけど…」
 ルイは納得いかないみたいだ。憂えを含んだ表情で首を傾げている。
「そんなに変な顔してた?」
「なんていうか、」
 今度は巧い言葉を捜して、首を傾げたりくうを見つめたり。と、いきなり、
「そう!あたしねっ、ミウちゃんなら逸兄の恋人でも許可するよ!」
 彼女の中では発言に至るまでに、それなりの思考回路があったのだろうが、ミウカにしてみれば突飛以外の何物でもない。
 ミウカは盛大に吹き出し、驚くと共に慌てた。
「なっ、ななななに言ってんの!?」
 ルイは「違った?」といたって大真面目だ。
「いるんでしょ?好きな人。そーゆうので悩んでますって、顔に書いてある」
 ぴしっと指を立てた手をミウカの顔前に突き出し、ルイはしたり顔だ。間違いないでしょ?と決め付けてしまっている。
 今や顔中を真っ赤に染め上げて、ミウカはぶんぶん顔を振った。
 正直、恋愛の意味での「好き」を、ミウカは知らない。
 尊敬すること、大切にしたい気持ち、護りたいと願うこと、そんな感情ならばずっとあった。これからも湧いてはあり続けるものだろう。
 それだけではないのだと、頭が理解していても、そのものを体験したことがなかった。
 ――不必要だった。
 コウキとスラが互いを想い合った感情の名をそう呼ぶのだと、判るのはそれだけだ。
 言葉を失っている内にルイは構わず続ける。
「ほら、ルイはお兄ちゃんが好きでしょ?ミウちゃんはそれで言えないのかなって」
 ルイは逸に依存している。過言ではないと、言えるだろう。――ミウカには、判りすぎるくらいの感情だ。ミウカにとってのハルが、そうであったから。
 逸の恋愛は大抵、ヤキモチ焼きの妹という存在が乗り越えられず、相手が去っていってしまう。なんともご愁傷様なことなのだが、逸曰く「その程度の感情なら要らん」だそうだ。
 ミウカの居候以降はそういう相手がいないようで、ミウカが実際目の当たりにしたことはないのだが、ルイから語られる武勇伝を聞けば聞くほど、相手に同情してしまう。
 それなのに、去って行ったかつての恋人達を「過ぎたことだ」と一蹴に伏してしまう逸は、あまりに冷徹だと思う。気の毒過ぎて、語るのも忍びなく思っているからなのかもしれないが。
「違う?」
 純粋に疑問符を浮かべた瞳がじっと見つめてくる。ルイの中ではそれが結論に違いないという確信でもあるようで、自信満々だ。
「違う。なんにせよ、はっきり言えるのは、逸兄は対象外ってことだね」
「じゃあ、莉哉さん?」
 打って響くほどの早い返しだ。
 再び盛大に吹き出す。免疫のない話題に加えて、突拍子ない言葉の羅列に、冷静な思考回路が追いついてこない。
「何故莉哉!?」
「ムキになっちゃって、可愛いの」茶化して笑う。
「だっ、だいたいなっ、悩んでなんかいないぞ!?」
「ふぅん?言い張るならそーゆうことにしといてもいいけど。立ち止まることがあれば、ルイに言ってね」
 不相応な大人びた言い方だ。からからと笑い出したミウカに、ルイの膨れっ面が対面する。ひとしきり笑ってから引っ込めると、それを穏やかな笑みに変えた。
「ありがと、ルイ」
 記憶が蘇る。
 この自分を好きだと、真っ直ぐな瞳をぶつけてきてくれた、あの子達を。城下の街角で、ミウカの笛を楽しみに集まってきてくれた少年少女達の瞳を。
 懐かしさが込み上げる。
 他愛もない話で盛り上がっていると、時間はあっという間に過ぎ去っていく。「明日もくるからね」とミウカが立ち上がる。寂しさを押し込めて「うん」と頷き、立ち上がったミウカを見上げた。
 かつん、と硬質な音が病室内に響き、連続してノックの音がした。
 ルイの目線は音の順番に沿って、床に落ち転がる物から扉へと向けられたが、ミウカは大慌てで扉の方へと転がっていく《聖珠》を追い掛けた。
 丁重に扱い、細心の注意を払ってきた筈なのに。どこで緩んでしまったのか、と腹立たしくなる。
 滑らかな音の軌跡を描きながら、ミウカの指先のほんの少し前を転がり逃げていく。扉の手前でそれが止まり、ミウカの手が届くという時に、別の手が《聖珠》を拾い上げた。二本の足がミウカの目前に迫っている。
「っ…」
 がばっと見上げた先に莉哉がいた。拾い主にほっと胸を撫で下ろす。
 よっぽど必死な形相になっていたらしく、自分を見上げるミウカに、莉哉は微苦笑を向けた。腕を掴んで立たせると、少女の頭越しにベッドの上でこちらの様子を見つめていたルイに、明るく挨拶を投げる。
「莉哉さんっ」
 途端笑顔満面になったルイは、入って入って、と急かしている。
「久し振りだな。なかなかこれなくて悪かった。しかも手ぶらで来ちゃったし」
「んーん。気にしない。今日はミウちゃんからこれもらったから」
 嬉しそうに花瓶に生けられた花達を指す。その笑顔はミウカの選択は正しかったのだと証明していて、莉哉までもが嬉しくなっていた。
 スツールに座る莉哉の後ろに続いていたミウカはベッドに腰掛けた。当然のように湧いた疑問を口にするか迷っている内に、莉哉が答えを述べる。
「朝香との用件が早くに済んでさ。近くにいたし、来てみたんだ」
 どう返事を返していいものだろうかと迷って、結局黙って頷くだけにした。
「莉哉、ごめん。それ返してもらっていい?」
 大切なものなのだと少女から聞いていただけに、莉哉の手つきはとても慎重で、不安があったわけではないのだが、常に傍に寄り添っていたものが無いというのは、ひどく不安定に感じた。
「あっ、それって。ミウちゃんがいっつも大切にしているものだよね!?ルイにも見せてっ?」
 言うが早いか、ずいっと手を出しておねだりな視線を莉哉に向ける。困ってミウカの伺いを仰ぐ莉哉の視線に、ミウカは頷いてみせた。
 ルイにも大切なものだと伝えてあるし、乱暴な子でもない。第一、断る理由が見つからない。拒否すれば不審に思われるだけだ。
 器を持つ形に整えられたルイの両掌に《聖珠》が乗せられる。莉哉の手と《聖珠》とルイの手と。
 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ繋がったその瞬間、病室内を眩い光が満たした。
 そこにいた三人が一様に目を閉じ、数秒後おそるおそる目蓋を上げる。
 落ち着く間も無く、強く純白の光源に包まれたままの室内に、様々な映像が浮かんだ。現れては消え、流れ、次から次へと展開されるそれ。

 ミウカはそれら総てを知っていた。乗り越えてきたのは、己の体験で。
 莉哉はそれら殆どを知っていた。見たもの、聞いたもの、そして想像し、心痛めたもの。

「な…によ、これ…」
 驚愕に目を見開くばかりで、ルイが洩らした言葉は静かに床へと落ちた。
 何よりも鮮明に見せつける、痛く、悲しく、儚い思い出。
 できればもう少しだけ、逸らしていたかった過去。向き合うにはまだ、心が血を流していて…。
 唐突に、ぷつんと、それらは途切れた。余韻を残し、ミウカの心臓はどうしようもないほどに乱れ騒いでいた。
 通常の顔を取り戻した室内は静まり返り、扉の向こう側にある喧騒だけは現だった。
「今の…なに?ミウちゃん…?」
 こわごわと首を巡らせるルイと目が合った。だが紡げる言葉が見つからず、見つめ返すしかなかった。
 映像の中に溢れていたのは紛れも無くミウカだった。鮮やかな【赤銅】を身に纏い、必死に生きていた頃のミウカで。
 そこに虚構はない。真だけが存在する、史実。
「だって、今のって…ミウちゃんだったよね。髪の色とか瞳とか違ったけど…ミウちゃんだよ、ね?」
 ルイの瞳に渦巻く複雑な色を、綺麗に安心させてあげられるほど、巧い説明など思いつかない。混乱しているのはミウカも同じで。
 だが一つだけ、止める術が無かったとしても、二人には――否、こちらの世界の人間には知られたくなかったことまで、明瞭な形で知らしめられ、どこにも向けようのない怒りが込み上げてくる。
 それは理由。
 ミウカが莉哉の傍へきた、理由だった。
「俺は…消え、る?」
 呆然と呟く莉哉の声にはっと意識を戻し、ぎゅっと手を握った。中空を見つめていた莉哉は、その力の出所に視線を落とし、それからミウカを見た。瞳が揺れている。
「消えない。そんなことにはさせない…!その為に、あたしはここにいる」
 力強い言葉と共に握り締める両手に力を入れた。知られてしまった以上、隠すことは無理だった。いずれ判明することだった。今がその時。覚悟を決め、ミウカは話し始めた。

 ただ、一つの真実は、この時はまだ伏せられたまま。


[短編掲載中]