病院のロビーが、何処と無く暗く感じるのは、前向きになれない場所特有の雰囲気の所為だとしてしまいたかった。だが本当は、そんな後ろ向きな思考に支配されるだけの場所じゃないことを、医師も看護師も、入院患者ですら知っている。
 だからこれは、暗くなりがちな少女の心境がそう感じさせている他ないのだ。
 病院という場所でこんな空気を纏っていれば、事情を知らない周囲の目はおのずと同情の目を向ける。けれど少女に直面しているのは、病院内で起こったことの所為ではなく、他にある。
 備え付けのソファに、並んで座っている二人の格好は正反対だった。
 浅く腰かけ両膝に肘を乗せ前屈みになる少女――ミウカと、背もたれに体重を預け足を伸ばし仰け反って座る逸。高い天井を仰いでいた。
 こうして無言状態が開始されて、一時間近くが経過していた。良策は未だ浮かばない。
 ミウカが何度目かの溜息を吐いた時、逸が姿勢を変えた。長い足を組み、ミウカの視界に入る範囲まで上半身を屈める。
 視線を感じながらもミウカは床を見つめたままでいた。互い違いに組んだ指先にぎゅっと力がこもり、手の甲に爪が食い込んだ。額にあてがい俯くと、少女の細髪が顔を覆う。
「もう一回、行ってくる」
 きゅっと顔を上げたかと思うと、そのままの勢いで立ち上がろうと動く少女を、逸は制する。
 なけなしの気合いを集結させて勢い込んだのはいいけれど、ルイの病室まで踏み込めるほどまでは集められなかったらしい。ミウカの手首を掴んだ逸の手が少し力を入れただけなのに、若干浮いていた腰は呆気なくソファに逆戻りした。
「悪かった…」
「逸兄が謝ることじゃない。ルイの気持ち、判らなくもないし」
 思い出しては、浴びせられた言葉達に胸が痛くなる。ルイの素の感情が、きつい。
 責められる対象があればよかったのだが、それがない。遣る瀬無さをぶつける場所がない。
「だけど…どうしたら、いいんだろう…」
 正しい路を、いつでも模索している。間違いじゃない答えを、方法を、いつも捜している。訪れた結果に、胸を張れるだけの生き方をしたいと願うのに。
 光が、ミウカ、莉哉、ルイを包み、見せた過去を説明しても、肝要な部分をミウカは伏せた。あの時はまだ、憶測でしかなかったのが理由の一つではあるが、認めたくなかったのが最大の理由だ。

 ルイの中に、失われた莉哉の《魄》がある。

 ターニアは言った。《魂》と《魄》は互いに引き合うと。必ず互いに存在を指し示し、合うべくして導くのだと。
 二人が同時に《聖珠》に触れた瞬間に反応したのが、動かし難い証拠だ。信じたくないという感傷は、塵に等しい。
 昨夜、逸の帰宅を待って顛末を話した。
 莉哉とルイに話したこと、伏せたこと。正しい判断だと逸は言った。その一言で混雑していた頭の中が、僅かに落ち着いた。
 そして今日、逸に付き添ってもらい、ルイに総てを打ち明けた。それが一時間ほど前のことだ。
 ルイは恐慌に陥った。
 だから口走った言葉の全部が本心からだとは、言い切れない。だが逆に、だからこそ本音だったのではないかと、思う。
 話し方が悪かったのかと反芻しては後悔した。誤解を招いた。それを解きたくて、出来ないままになっている。ルイが激昂したのを目の当たりにし、怯んでしまった。恐慌に陥っていたのはミウカとて同じで、納得してもらえる語は浮かばなかった。

 ――今までの親切はその為!?

 これを最後に、ルイは「嫌だ」を繰り返すだけだった。聞く耳を全く持たない。逸の言葉も届かない。閉ざしてしまった。
 自分の言葉を信じてもらえなかったことが、何より悲しかった。
 とにかく、互いに落ち着く必要があると退室を促され、こうしてロビーに座っている。
 一度、逸だけが話をしに行ったのだが、平行線のままに終わった。ミウカの元へ戻って開口一番、あんなに頑固だとは思わなかったと辟易していた。ナラダのこと、ミウカがこちらにいることの意味を知っている人物の中で、一番冷静なのは逸だった。
 突然の非現実的な事に、感情が追いつけないのは当然だ。だがのんびりと構えていられない現実も迫っている。気が急くだけで思考はまとまらない。
 ひどく、もどかしい。
 更に数十分。悶々と時間を過ごした後、再びルイのいる病室前に立った。ピッタリと閉じられた扉がミウカの前に重厚な壁のように立ちはだかる。
 ミウカの背後では莉哉と逸が並んで立っていた。ミウカがロビーにいる間、ルイが心配だからと莉哉はずっとルイに付き添っていてくれた。
「一人で、平気か」
 心配しているのが気配で充分に感じられる。二人きりで話たいとの申し出を快く認めてくれたのだが、それと危惧は別物だ。
「うん…」
 呟き、取っ手に手を掛け、深呼吸した。唇を引き結ぶ。ノックをしても中からの反応はなく、またぞろ込み上げる切なさを飲み下した。
 入るよ、とことわりを入れても無反応だった。仕方がないのでそのまま静かに入室する。ルイはベッドの上で上半身を起こし、窓の方に顔を向けていた。ミウカの位置からでは表情が見えない。
 裏切られた、と思っているのだろう。目的の為に近づいたのだと。
 逸に見つけられたのには、ちゃんと意味があった。必然だった。運命の導きだったというのならば何故、こんな困難を強いるのか。
「ルイ…。聞いて」
「…」
「信じられない話だけど、真実で、それは莉哉に戻すべきものなの。たぶんルイの意志一つでなせることで、」
「その時、ルイはどうなるの?どうなっちゃうか知ってるの!?」
 感情任せに叫ぶ声。振り返る瞳に涙が溜まっている。
 耳を塞ぎたくても、逸らしてしまいたくても、絶対にしてはいけない。ミウカは背筋を伸ばし、ルイと対峙した。
 身体の横に、見えないようにと握られた手が震えていた。拒絶するルイに近寄ることも叶わない。
 ルイの不安を取り除きたい。けれど明確な答えをミウカは持っていなかった。大丈夫だよと言ってやれないことが、悔しい。
 人体内部に入っているなど、考えもしなかった。万に一つも、考えていなかった。安直に捉えていたのかもしれないと、己に腹が立つ。
「知らないんでしょ!?返せだなんて簡単に言えるのは、ルイがどうなってもいいからなんでしょ!?」
「っ!それは違う!誓って言えるっ」
「無責任なこと言わないで!」
 ぽろぽろと流涙が再開する。これまでのように手を伸ばし、抱き締められない。泣かせているのは、この自分。
「ルイ。信じてほしい。決してそんな風に思ってない。一度だって思ったことはない。本当に偶然で…。まさか人の中にあるだなんて、考えてもみなかった」
「そうだとしても、莉哉さんを選んだってことでしょ?」
「ちがっ…」
「ルイのことなんて、どうでもいいんでしょ!?」
「違う!」
「だったら!代わりに生命くれる!?ルイを助けてくれる!?…ミウちゃんはいいよね。要求するだけだもの。失うものがないんだもの」
 泣き顔に、胸が締め付けられる。
 どうして大事にしたいと願う相手を、幸せにしてあげられないのだろう。自分の無力さが、恨めしい。
「ごめん、ルイ。あたしだって助けたい。できることがあるなら、なんでもしたい」
 せめて、この言葉に偽りがないことを認めてほしい。これも、手前勝手な要求でしかないのだろうか。
「証拠、みせてみてよ」
「ルイ?」
「あたしを助けたいって本気で言ってるなら、その証拠みせてよっ!なんでもできるんでしょう!?だったら、ここから飛び降りて、本気みせて!」
「――いいよ」
 拍子抜けするくらいアッサリと言い放つ。この場限りの取り繕いではなく、本気で、本心で言った台詞だった。それくらいの覚悟がなくて、ラスタールを離れられるわけはなかった。


[短編掲載中]