今度はルイが怯む番だった。
「死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「うん。それで判ってくれるのなら。あたしはその為に、ここにいる」
 続ける言葉を捜して、ルイは詰まった。真っ直ぐに見据えられて、逃げ場がない。ルイは開き直りの勢いを、よく考えもせずに言葉に、吐き出した。
「だっ…だったらっ…!今すぐやってみせてよっ!」
 やけっぱちな言葉さえ、ミウカは真摯な瞳で受け止めた。判った、と静かにこぼし、窓へと向かう。少しの躊躇いもなく窓を開け、サッシに手を掛けた。
「ふざけないで!」
 ルイの怒鳴り声がした。風を切る鋭い音が間近に聞こえて、振り返ろうとしたミウカの額に熱が走る。硬質な破壊音が床の上で弾けた。
 足元に転がるのは、砕けた散った花瓶と昨日ミウカが買った花達。生暖かい感触がミウカの額から流れ出て、頬にまで伝っていた。
 音を聞きつけて飛び込んできた莉哉と逸は、室内の空気に緊迫感を顕わにした。
 窓際に佇むミウカの顔に、一筋の血があった。庇いに動いた莉哉を制し、ミウカは依然ルイを見つめている。興奮の収まらないルイは逸に止められながらも、ミウカを睨みあげていた。
 ルイは逸の腕にしがみつき、吠えた。
「人の死なんてなんとも思ってないんでしょう!?あれだけ殺してきたんだから!」
「ルイ!」
 すかさず咎める逸の声に、ルイはビクリと身体を硬直させた。長く息を吐き出し、逸は訓戒する。
「闘わなければいけない中で、望まなくてもそういう結果を招くことはある。生き抜かなければいけない世界で、コイツは生きてきたんだ」
 苦しまないわけはない。のうのうと生き残ったわけじゃない。血を浴びる度、血生臭さに絡まれる度、精神は蝕まれ、闇へと突き落とされた。生きている限り連なり続けるもの。
「逸兄、いいんだ。事実なんだから。この手は血に染められてきた。消せない咎だ」
 重い口を開いて、いくらでも台詞を紡げた。だが確実に、言葉は深く、ミウカの心臓を抉っていた。
「出ててくれないか」
 端的に言う逸の声が、奇妙なくらい静かに耳に届いた。
 莉哉に促されるもミウカは足を縫い付けていた。そして深々と頭を垂れる。

「お願い。それは莉哉のものなんた。…返してほしい」


◇◇◇


 流れる川の水面に、ゆらゆら揺れる月影が浮かんでいた。
 頭上高く満天の星達に見下ろされ、ただただ時間だけが過ぎていく。

 声が、言葉が届かないことが悲しかった。信じてもらえなかった。長いとはいえない時間だけれど、一緒に笑っていた日々は嘘ではなかったのに。それさえも総てが、ルイの中では偽りとなった。
 いつか一緒にこようと約束した場所に、ミウカはいた。少し離れた所で見守る逸に、感謝の念を抱きながらも、心は深く沈んでいた。
 八方塞がり。行き詰まり。進むことも後退することもできない。――路がない。

 仰げば視界いっぱいに広がる晴天が痛くて、俯いて小さくうずくまった。逸にねだって連れてきてもらった、合宿所近くの川のほとり。不可思議な雰囲気のある場所。
 答えがあるわけでもないのに、無性にここへ来たかった。
 落ち込んでいる暇はない。諦めてしまったらそこで、終わってしまうのだ。
 両腕で自身を抱き締めた。
 諦めない。絶対に。
 決意を新たに、ついと顔を上げた。と、不意に聞こえた“音”に心臓が大きく鼓動を刻んだ。
「…!?」
 目を見開き、闇を見つめる。
 有り得ない。だけど…。
 ――…ミウカ……。
 優しい声音だった。心地よく耳に届く、懐かしく、愛しい声。
「ハル…?」
 呟いた少女の声は夜気に溶けた。ふわり、とミウカを包み込む温もりが舞い降りる。
 ハルが、いる。
 ――ミウカ、よく聞いてくれ。
「…ハル」
 少女は目蓋を下ろし、耳を傾けた。自然が紡ぎ出す音に調和して、ハルの声がゆっくりと響いた。
 ――内部侵犯は、確実に進んでいる。このままでは本当に、生命が無くなるぞ。護るのを辞めさえすれば…。
「ねぇ、ハル」
 わざと不服声を作った。
「こっちに来た理由を、根底から覆すようなこと言うな。そもそも、護るだけの能力を与えてくれたのは、ハルだろう?」
 数秒の沈黙が落ちる。
 ――…気づいて、いたのか。
 息を飲んださまが浮かぶようだ。少女はくすくすと笑い、続けた。
「当然。ハルの存在は感じていた」
 【赤銅】を失って、確かにミウカは特別な能力のない『ただの人間』になった。ハルが望んだモノ。そしてミウカは、ハルと歩んでいけるのなら無くなっても構わないとしたそれ。
 騎士として必要なだけの剣術も体術も身につけていたミウカに、騎士団長としての籍をタキは継続させると、気持ちの整理がつくまで待つと言ってくれたのだが、そこを己の居場所だとは思えなくなっていた。
 そして明らかになった莉哉の《消失》
 護りたいと強く願った時、再び与えられた。枝分かれした路を選択したのは自分だ。後悔はしないと誓った。後ろは振り返らないと。
 でも。
 それでも心は弱ることを知っている。甘い囁きに、傾きそうになる瞬間はある。
「皆が恋しいと、思う。だけどあたしは、タキを裏切り、ナラダから逃げ出したんだ。ていよく、莉哉を救う為だなんて言ってるけど、本当は違う。逃げたかった…」
 大切な人を沢山なくした。戻らないものが多すぎた。ミウカの独白は悲哀を濃くし、続く。
「好きだった世界なのに、護りたくて必死になっていた世界なのに――急に色褪せて見えた。落ち着いて復興が進んで、あそこに残ったのは『虚』だった。自分にとって『無』の世界になった。勿論大事なことも沢山ある。総てを消去してしまえるものではない。大事な思い出も、ある。だけど同時に、辛い記憶が傷痕となり、残った」
 それは、決して風化しない。色濃くなっていくだけ。
「ここで生きて、大切にしていかなければと思う半面、思い出す度辛くて、目を背けていたくて。…だから、逃げ出した」
 ――こっちへ来たいか?
 ミウカは即座にかぶりを振った。瞳に強さが灯される。
「それもいいかもしれない。けど、やるべきことはやってからだ」
 ――それが、望み?
「どういう意味?莉哉に消えてほしくない。本心だ」
 ――それは本当に、ミウカ自身の望みなのか?あいつを救って、それだけが?
 少女の名を強めて言った。ミウカは意味が掴めず、見えない相手を思い描き、見つめた。
 ――俺、言ったよな?自分の幸せを一番に生きろって。あいつと並んで、歩んでいくことじゃないのか?だからあいつを救いたいんだろ?
「……」
 ――俺が言える台詞じゃない。けど敢えて言わせてもらう。…もう諦めるな。散々耐えて我慢して押さえ込んできた。もういいよ。たまには我儘になっても。譲りたいものを、自分の為に、自分のことだけを想って、手に入れても…いいんだ。


[短編掲載中]