冷淡に吐き捨てるように放たれた言葉に、素直に従った。連れて行かれた先は保健室。
 逸は入るとすぐにデスクの椅子に座り、くるりと室内の方へと回転させた。莉哉に座る場所を指示するでもなく黙している。勝手にしろ、ということなのだろう。逸のいる位置から一番近いベッドの端に腰を下ろした。
「ミウカがこっちにきた心理を、考えたことがあるか」
 唐突な問い掛けだ。とてもシンプルで、話の方向が容易に読める。直接的に聞かれたのは初だった。自分の内にすら尋ねたことはない。
 彼女が「こちらに存在する」事実の追及を、先延ばしにしてきた。怖かったのだ。知り得た瞬間に、彼女が消えてしまいそうな恐怖に毒されていたから。
 見て見ぬふりをして、避けていた。――それはあの時、病室で“理由”が明晰になった後も同じで。
 逸の見透かしたような視線がひどく居心地悪く、思い出したくない影をだぶらせる。苛々が無限の泉のごとく沸き起こっていた。
「責任感が強いからだろ」
 半ばやけっぱちな莉哉の回答に眉をひそめるでもなく、無表情なままだ。直視されると逸らしたくなる。想起するのを避けたいと思う。
 少女に生来備わっていたものなのか、環境の所為なのか。あるいはどちらともか。
 いずれにせよ、良くも悪くも、責任感は強靭に備わっている。それ故、引責する。
「それだけだと、本気で思ってんのか」
 平坦な、静かに低く紡ぐ逸の声。そこに含まれる感情。決して表には出さないようにとされるそれを、逸は必死に飲み下した。――彼は知っていたから。
 少女が《聖珠》を護る為に、彼女自身の精神力だけでは填補し切れなくなっていることを。生命を削るようになっていることを。ほんの数瞬の油断が招いたことを悔やみ、責めたことを。それ自体がたいしたことではなかったとはいえ、莉哉が怪我をしたという事実を、自分の所為だと決め付けたことを。――逸は知っている。
 言葉に詰まっている莉哉を見据えて、一段階低くなった声音で、逸は追い討ちをかけた。
「本気で言ってるのなら、お前は救いようのない大馬鹿野郎だ」
 逸の無表情が、無感情だというわけではないことを、莉哉は感得した。同時に、今あるのは、憤怒を押さえ込んでいるのだということを。
「素路がぶすくれる理由を、あててやろうか」
 言われっぱなしで釈然としない莉哉の心境を読み取ったか、逸は底意地悪い表情を向けた。
「ミウカが己を顧みず、自分を護ろうとするのが、気に喰わない。だろ?」
 見透かされた物言いに、むっとする。反論が飛び出るより前に、逸は続けた。
「向こうで生命を顧みなかったのは素路も同じだろうが。同じことをしようとした奴に、責められる謂われはない――と、俺があいつの立場だったら思うが」
 言葉に詰まり、何も言い返せなくなる。何もかもがその通りだと思う。が、素直に受け入れたくない自分は確かにいて。
 追い討ちをかけるが如く、逸は言葉を止めなかった。
 そして、彼の口から語られた真実に、愕然とした。聞き終え、泣きたいほどの後悔が、押し寄せた。
 不審に感じた時に、是が非でも問い質すべきだったのだ。思い当たる節はいくらでもあった。
「合宿所で倒れたのも、ボールを避けられなかったのも、…全部“その”所為なんだな?」
 逸が語ったことを要約して繰り返した。一つ一つを整理しながら、まとめる為に。
「そうだ」
「体育の授業見学してたのも、ゲーム遣り過ぎて寝不足だったって言ったのも、」
「うちにはゲーム機自体ねぇよ。誰がやんだよ」
 端的に返す逸のおかげか、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた脳内の思考が、整頓されていった。思い返せば思い返すほど、己の愚鈍さ加減に辟易する。
「確実に消耗していってるよ、アイツは。それでも辞めようとしない。忠告には一切、耳を貸そうともしない」
 《聖珠》を護っているのはミウカの意識の糸。それは生きとし生けるものより少しずつ力を分けてもらってる。
 元々ラスタールに比べて環境が悪く、思うように紡げていない。現時点ではもう、己の生命を削ってまで護ろうとしている。その為、内部侵犯は倍の速度で少女を蝕んでいく。
「何故だか判るか?アイツがこっちにきた心理を、考えたことがあるか?」
 逸は再度同じことを問う。少女がひた隠しにしようとしたことを曝け出した上で、問い掛ける。そして更に畳み掛ける。
「還る方法も、生命の保障もない。それでも迷うことなくこっちにきた。お前を救いたい、ただ一つの願いだけを抱えて。責任感だけでやれることか?…半端な気持ちじゃ、そうはいかねーだろーが」
 もっと早くに、気づくべきだった。
 図書室で、本当に近くに寄るまで、少女が気配に気づかなかったということに。彼女が敏感に気配感じるのは【赤銅】の能力によるものなんかではないのだから。
 莉哉を護る為に彼女が己を削り、代償を払った所為で、弱体化していた証。

 いてもたってもいられなくなり、保健室を飛び出した。
 隣接する図書室の扉を勢いのまま開けるも、そこに少女の姿は見当たらなかった。室内にいた生徒の好奇の目を振り切り、廊下へと出る。
 がむしゃらに走って、闇雲に捜し回った。そして玄関へと続く廊下にその姿を確認した途端、背筋を冷たいものが流れた。
 壁に寄り掛かり、壁に支えられていた。背中を向けているので顔は見えないのだが、凛とした立ち姿は微塵もなく、うな垂れている。少女の名が声になる前に、目の前で、膝から崩れ落ちた。
 滑り込むようにして駆け寄る。ミウカは激しく咳き込み、口元を覆っていた指の隙間から血が滲み出した。細い肢体が折れてしまいそうだった。
「ミウカ!!」
 ひどい声だった。自身のものとは思えないほど、混沌とした声。続けざまに呼ぶ莉哉の口の位置まで、細い指が持ち上げられた。制止を意味する仕草だ。指先から、掌から、真っ赤に染める血が視界を奪う。鉄の匂いがした。
「騒、ぐな…。大丈夫、だ…から」
 断続的な、消え入りそうな話し振りだった。ひどく辛そうで、蒼白な顔を見て冷静でいられるわけはない。
「ちょっと我慢しろよっ!」
 ミウカの背中と膝裏に腕を通し、抱きかかえ立ち上がる。軽すぎる重量感に、背筋が凍て付いた。
「り、ぃや…。血が、つ…く…」
「構うか!今すぐ病院へ連れてってやるからっ…!」
 こんな状態でさえ莉哉を気遣うのが、無性に腹立たしかった。莉哉のシャツを握り締める力は弱い。ぐったりと頭を預けてくる。
 走り始めた莉哉の名前を、か細い声が呼ぶ。
「なんだ」
 焦燥にかられ、優しく声を出したかったのに巧くできなかった。なるべく揺らさないよう慎重に足を運びながら少女を見遣る。
「逸、兄…の、とこ…。病、院…じゃなく、て」
「判った!判ったからもう、しゃべんな!」

 不意に、コウキに寄り掛かり眠るミウカを思い出していた。こんな時に…否、こんな時だからこそ、莉哉の心を揺さぶる。
 ミウカが頼るのは、いつでも、どこでも、自分ではないのだと思い知らされる。


[短編掲載中]