少女は眠る。安らかで静かな寝顔だった。

 保健室へとってかえした莉哉達に、逸は沈着なまでの行動で自宅へと少女を運んだ。
 その円滑さは「慣れている」故のものなのかと、後部座席に座り、バックミラーに映り込む逸を見て思った。だとすれば、今まで何度となく、こんなことは起きていたのだということだ。
 香椎宅へと到着する頃にはミウカの具合も落ち着いた様子だったが、傍を離れるのが忍びなかった。何も出来なくても付き添っていたかった。
 そんな莉哉の心情を察し、夜が近づいてきても逸は帰宅を促さなかった。電話を一本入れさせ、自分も応対し、莉哉の外泊を取り付けた。幸い翌日は土曜日。学校は休みだ。

 目蓋越しに感じる光、温かさにゆっくりと目蓋を開ける。あまりの眩しさに顔をしかめた。身体を畳んで寝ていた所為で、体勢を変えると関節がギシリと軋んだ。
「朝、か…」
 眠りについたのは空が白んできた刻だった。規則正しく寝息を繰り返しているミウカを見ている内に眠気が降りてきて、リビングにあるソファを借りることにした。
 目覚めてしばらくはぼーっと天井を眺めていて、ひそめた話し声が聞こえてきて首を巡らせた。ミウカの部屋の方からだ。ドアが少し開いているが、莉哉の位置からでは中の様子は窺えなかった。
 足を忍ばせ近づくと、ベッドで起き上がっているミウカと、傍らに座っている逸が見えた。ピリとした空気が二人の間に流れている。
 のぶに手を伸ばしかけて、自分の名が挙がったことに、反射的に壁にへばりついていた。
 ボソボソとしか聞こえていなかった声も、耳をそばだてると、一語一句洩らさず聞き取れるようになる。
 逸が抑揚のない調子で声を放つ。
「当事者なんだから、ちゃんと伝えたらどうなんだ。こんな状態じゃ、遅かれ早かればれる。体調は際まできているんだろう?」
 説得してる?なんのつもりだ。
 ミウカの状態も招いている原因も、莉哉はとうに知っている。逸が莉哉に話したことだ。なのにミウカに“それ”を莉哉へ説明しろと説得している。逸の意図が読めない。
 考えがあってのことだと推測はつけられるのだが、真意が読めない以上、割って入るわけにはいかなかった。じっと息を潜めて経緯を見守った。
 ベッドの上のミウカは華奢な身体を折り曲げて、膝を抱えている。更に小さく見え、とても儚い存在そのものだった。
「不安にさせたくない。極力余計なことは省いていたいんだ。…終わったことだと思っているのに、忌まわしい記憶を掘り起こす必要はない」
「中途半端が一番不安にさせている。曝け出さないで、肝心なことひた隠しにして、素路を護るのは無理だ。…無理なところまできている」
「だけどっ…!言えるわけ、ないじゃないか…。――いい方法があるなら教えてよ…っ」
 意を突かれ、思わず感情的になった少女の声は、耳に痛かった。音量が大きくなってしまい、咄嗟に口元を覆っている。ついと顔が向けられそうに動いて、見えない位置まで莉哉は身体を移動させた。
 数秒の沈黙の後、再び声がした。落ち着いた響きだった。
「ハルが自分の為に生きろって、…言って。ずっと考えてた。大切な人を護りたいっていうのは、自分の為なんじゃないかって、思う。――そういう生き方しか知らないし、できなくて。でも宿命をうっとおしく感じることはあっても、その為の――護れる能力があることが嬉しかった。そうして生きることに、誇りを持ててたと思う」
 必死に宿命と折り合いをつけながら、逆風に負けないよう、折れてしまわぬよう、懸命に生きていたナラダの騎士。その地位は、少女の生きる為の柱でもあった。
「…これは、自分の為に生きてきたとは言わない?」
 懇願するような声だった。
「そして、今は…莉哉の《魂》を護れるだけの力を再び与えられたことに、感謝してる」
 誰かを護れるということ。それは生きる意味にはならないだろうか。ミウカの視線は問い掛けている。
「男ってのは、護られるのではなく、護りたがる生き物だ。特別な力がなかろうとな」
 逸は、ほんの少しだけ、諭すような優しい響きを含めた。
「逸兄…。もしかして、莉哉に…話した?」
「現況はな。肝心なことは言ってない」
「?」
「お前の考えだ。気持ちと言ってもいい。素路が聞きたいのは謝罪とか決意じゃねぇ。判ってんだろ」
 ミウカは俯き、沈黙した。逡巡し、顔を上げ、逸を見る瞳は揺れている。出かかった言葉が喉までせり上がり、唇は開かれるも躊躇い、音になる前に閉口した。
 そして、決心の末に発したのは、
「…自分にはそれが、判らない。あるのは、護りたいという願いだけで…」
 弱々しく、消え入りそうな音量だった。握り締めた掛け布団を掴む手に力がこもる。
 考えもなしに、気づけば、足が部屋の中に踏み入っていた。
 目を見開いたミウカの顔と対面する。振り返った逸は冷静に莉哉を見上げていた。莉哉が戸口にいることを知っていたのかと思わせるほどの沈着ぶりだ。
「謀ったな、逸兄」
 平坦に放つミウカに、一瞬【赤銅】が被る。
「俺はなにも。当事者に意見があるみたいだな。素路?」
 ふられて、我に返る。飛び込む直前、瞬間的に莉哉を襲った料簡の波が、再び押し寄せた。

 《魄》の戻った終結が、ミウカの消散だとしたら。そんな結末になるくらいなら、戻らなくていい。
 ――《魄》など、要らない。
 それを有り体に、開陳した。

 少女はいきり立つ。
「ほっておいたら生命がなくなるんだぞ!?そんな事態、絶対に許さない!」
 昂揚していく少女を見つめながら、莉哉の心は凪いでいた。
「俺がこの世界に還ってきたように、役目を終えた時、ミウカが俺の前から消えてしまうくらいなら…戻ってこなくていい。要らない」
「莉哉!」
「ミウカ。俺は本気だよ。それにまだ、生命が途切れると決まっているわけじゃない。だろ?」


[短編掲載中]