陽が傾きかけた廊下は静寂に包まれていた。自身の足音だけが歩調に合わせて忠実に響いている。
 図書室に朝香は向かっていた。以前より依頼していた本が今日、やっと入ったという連絡があったのだ。扉を開けると特有の雰囲気が漂っていた。
 入口すぐのカウンターに司書係の姿はなく、室内へと視線を巡らせた。試験も明けて、閑散としている。普段あまり利用しない朝香にとっては想像でしかないが、これが通常の概況なのだろう。
 奥の閲覧所に設けられたスペースの一点で、視線が止まった。熱心にノートに向き合い、参考書と睨めっこしている少女。皺の寄った眉間にシャープペンシルの後ろを押し付けている。解けない問題に悪戦苦闘しているようだ。
 耳にしたことがあった。図書室にいることの多い少女の隣に、最近よく見る姿があると。日を追うごとに頻度は増し、今では毎日のようにいるらしいと。
 いま少女は、一人だった。どことなく、ほっと胸を撫で下ろした自分がいて、皮肉な想いを嘲笑う。
 以前助けてもらった恩を差し引いても、朝香は遣る瀬無い想いのぶつける対象を誤った方へ向ける性根は持ち合わせていない。逆恨みなど、愚かだと一蹴に伏すくらいで。
 けれど先日の、無理矢理約束を取り付けてした内談の陰に、彼の心の中に、少女の姿が垣間見えて、それを思い出すとやはり、平常心が揺さぶられた。まともに対面するにはまだ時間を要するらしい。
 本は改めて後日取りにこよう、と踵を返そうとした時、ふと上げた少女の視線とまともに合った。途端少女の顔から気難しさが消散し、柔和な笑みを向けられた。ペコとお辞儀をされる。
 観念し、閲覧室まで足を運んだ。
「朝香先輩とここで会うのって珍しいですよね」
 屈託無く笑う。向かいの席を勧められ座った。
 近づいたからこそ気づいたことなのだが、先日街で会った時より痩せたという印象があった。元々華奢だったと思うが、ここまでではなかった筈だ。
「今日はたまたま用事があったの。貴奈津さんは?勉強?」
「はい。家にいるとテレビとか、誘惑に負けてしまってはかどらないので」
 照れ臭そうにしている。どこか疲弊した様子は窺えても、可愛らしさまでは消えていない。
「ここは静かだしね」
「集中するにはもってこいです」
 声質も、表情も、明るい。少女の持つ栗色の髪に、瞳の色に、似つかわしい明るさだ。けれど違和感が残る。説明し難い違和感。訝しさは内に秘めておき、朝香も笑顔を保った。
 体調を問おうかとも考えたが、やめておいた。他の話題を、と捜している隙にミウカが口を開く。
「元気ないですね」
 少なからず驚いた。こちらが言おうとしていたことだったのもあるが、自分がそんな風に見えていたということに。
 急に気持ちが落ち着かなくなる。
「え?」
 咄嗟に口をついて出たのはそれだけだった。
「あ。や…、間違ってたらすみません」
「ううん。ちょっとびっくりしちゃっただけ。元気ないように見える?」
「…はい。とゆうか、勘みたいなものなんですけど」
 朝香は綻んで、「参ったな」と呟いた。見透かされちゃったか、と。
「一大決心、って言ったら大袈裟に聞こえるんだけどね、あたしにとっては過言ではなくて、当たって砕けろ精神でぶつかったら、本当に粉砕しちゃって…。数日前のことで、ヘコんだ状況から脱しきれてないのね、きっと」
 真っ直ぐに射抜くミウカの真摯な瞳にほだされて、つい言葉にしていた。
 ミウカが莉哉にルイの見舞いを持ちかけた日、朝香はひと足先に莉哉と約束を取り付けていた。話があるから放課後に時間をとってほしいと。
 唐突なお願いに驚いてはいたけれど、快諾してくれた。どこか覇気迫るものが滲み出てしまっていたのかもしれない。
 学校では話せず街へと繰り出し、そこそこ客入りのあるカフェを選んで対座した。話の切り出しは覚えていない。感情が上擦っていて、落ち着きがなかったことだけは覚えている。
 別れてからしばらくは顔を合わせるのも辛く、避けるようにしていた。時間が経てば想いが薄れることを願って。けれど、別れた原因が真面なものだったとしても、心が納得していたわけではなく、想いは残留し続けた。
 ――他に好きな人がいる。ごめん。本当に、ごめん。
 別れを切り出した莉哉の顔は、きつく脳裏に刻まれた。
 誰だと、言わなかった。朝香も聞かなかった。…聞くのが、怖かった。おのずと判っていくものだから、それまでは知らないでいたかった。現実を叩きつけられたくなかったのだ。
 なのに。
 彼が挙げた理由は、朝香の知りうる限りでは、真実味がないように見えた。どれだけ時間が経過しようと、相手の存在は片鱗も見えず、風声すら聞こえてこない。あれは自分から離れる為の偽言だったのではないかと、疑うほどに。
 真意を知りたくて、避けるのを止めた。廊下で会えば挨拶をする。付き合う前の状態を取り戻そうとしているふりをした。当初は戸惑っていた莉哉も回数を重ねれば、友達として応対してくれるようにはなった。
 それは正直きついことでもあったけれど。
 朝香が望むような未来を、相手は望んでいないことが浮き彫りになるだけだったから。
 結局、諦め切れなかった。意を決し、本心を伝えた。ざわつくカフェの中で、そこだけが端然とした空間だった。
 莉哉は馬鹿にするでも白けるでもなく、終始真剣に朝香の言を聞き、踏まえた上で断裁した。どこにも余地はないのだと、判った瞬間だった。今度こそ本当に、諦めをつけなければと。
 無意識の内に、とつとつと話していた。けれど完全に考えもなしに話してはいなかった。自分が想いを残す相手の名は伏せていた。
 目の前の少女はじっと耳を傾けている。じっと朝香の瞳を見つめている。少女の瞳に吸い込まれそうになった。不思議な精悍さを宿していて、その引力に惹かれてしまったのかもしれない。
「ごめんね、こんな話。されても困るよね」
 少しだけ我を取り戻すと、話してしまったことが急激に恥ずかしくなった。どうにもならないことを、しかもミウカにしてしまったことを後悔する。だが向かい合う少女は至誠な態度を崩さない。
「まだ、好きなんですね」
 あまりにも率直で、面と向かって問われるにはまだ辛くて、鼻の奥がつんとする。きゅっと唇を引き結んで、それについて明確な返答をしなかった。
「彼は優しいから。そんな人がはっきりと言ったことだから。揺ぎ無いんだって思った。縋りつきたかったけど、そうしたら、もしかしたら傍にはいてくれたかもしれないけど、」
 ほしいのは、同情なんかじゃないのだ。
 自身に言い聞かせる。だからもう、ちゃんと諦めなきゃね。辛い恋は引き摺ってちゃいけないからね、と。
「振られても、正直判らなかったの。好きな人がいるって言われたけど、その相手が実在していないみたいな感じがしてて…」
 淡い期待を抱いてしまったのは否めない。
 あの日、本当に久し振りに向かい合う莉哉に対して、気持ちは昂ぶっていた。けれど言葉を交わせば交わすほど、少しの隙間もないことを思い知らされるだけだった。
「でもね、この前ちゃんと話したの。そしたら判っちゃった。彼が想ってる相手は、間違いなくいるんだって」
 戻りたくて、関係を元通りにしたくて場を設けたのに。皮肉だと、嘲笑が込み上げる。
 ミウカはずっと、ひたすら黙っていた。独白を静かに聞き入っていた。助言を求めているわけでも、してほしいことがあるわけでもないことが判っていたから。ただ話したくて、聞いてほしいだけなのだと。
 朝香はまたぞろ「独りでべらべらと、ごめんね」と謝った。対面する少女はここにきてようやと、顔つきを柔和に緩めた。


[短編掲載中]