棘のある視線、というものを井塚は身をもって体感していた。呆れ半分、煩わしさ半分。プラスほんの少しの優越感。
 あいつ、毎度こんな思いをしてたのか。
 莉哉の辟易した様子を思い浮かべては妙に納得する。予期せぬところで疑似体験してしまった。

 部活終了直後。片付けも挨拶も終え部室へ着替えに戻ろうかとした時に、先に廊下へと出ていた部員からつっけんどんな口調で名前を呼ばれた。いつかの場面を彷彿させる言い方だ。
 同じ状況などそうそうあるものか、と己の思考を嗤い、体育館の出入口を見遣り、固まった。
 不機嫌な部員の顔から斜め下に視線をずらすと、そこにいたのがミウカだったからだ。
「井塚!早く来いって」
 思わず笑ってしまうところを無理矢理消し去って駆け寄った。ひと睨みを忘れずに去って行くチームメイトの背中を見送って、真っ直ぐに自分を見つめる少女を見た。
 図書室から一年の教室へ戻る途中に体育館がある。少女の腕には教科書やノートが抱えられていた。
「お疲れ様です、井塚先輩」
「遅くまで頑張ってるね。これから帰るの?」
 通りすがりに立ち止まっただけなのだろうと、軽く考えていた。けれどミウカは真剣な顔つきで、井塚の問い掛けに答えず、二の足を踏んでいた。
「どうかした?…あ。莉哉?たぶん校内にまだいると思うよ。遅くなるって言ってたから。呼び出してみよっか」
 携帯は部室に置きっぱなしだ。部室まで来てくれたらすぐにでも、と言ってる途中でミウカは首を振った。
「そっか。番号くらい知ってるよね。繋がらないとか?」
 冗談まじりに校内放送で呼び出しちゃおっかと言っても、少女の表情は変化しない。言い出しづらそうな雰囲気のまま、じっと井塚を直視した。
「先輩にお願いがあって」
「へ?…え?…えええ!?俺っ!?」
 自分を指差し大いに驚く。驚き過ぎです、とミウカは笑った。
「井塚先輩は屋上の鍵、持ってないですか?」
 隠し場所知ってるよ、と井塚がミウカを連れ立って案内したのは、自分達の教室だった。教室に備え付けられているロッカーの内側に鍵は貼り付けてある。


 少女は屋上の中央部分まで進み入る。音を立てて扉が閉まると、静寂が二人を包み込んだ。それを壊さないように、そっと井塚は口を開く。
「莉哉となんかあった?最近のあいつ、思い詰めてて話し掛けずらい」
 重たい雰囲気は作りたくなかったので少し揶揄語調にする。井塚に向けられてる背中は無言のままだ。
「喧嘩でもした?」
 更に揶揄口調を重ねた。間が、気まずい。
「喧嘩だったら、よかったんですけどね。すみません、我儘言って。でもほんと、時間とか大丈夫ですか?」
 鍵を取りに行った時、貸してもらえれば後は一人で平気ですとミウカは申し出たのだが、井塚は付き合うよと返した。
「予定とかないし、さっきも言ったけど、ほっぽって帰れないって。邪魔だっていうなら、話は別だけどね」
 井塚は茶化すように笑う。少女は慌てて否定した。
「こんなのは可愛い甘えだよ。我儘なんて思わない。これくらいならいつでも喜んで」
「…ありがとう、ございます」
 はにかんで、嬉しそうに微笑むと、再び少女はついと空を仰ぐ。真剣な眼差しだった。
「空が好きなの?」
 それは答えではないと、頭のどこかでは知っていた。少女は緩やかに首をふり、口端に儚い笑みを浮かべる。
「あたしが産まれ育ったところでは、死者は天上の世界に移り住むのだと信じられていました」
 少女の呟きは、井塚に向けているようで、自分自身に向けているようでもあった。
「だからこうして、少しでも空に近い場所にくると、逢える気がしてくるんです」
 井塚には、返す言葉も繋げる言葉も見当たらない。黙って少女を見つめるしかなかった。そのあまりにも切実な横顔は、物思いに耽る莉哉と重なって見える。
「井塚先輩」
 夕暮れに浮かぶ少女の白い頬に半ば見惚れていた井塚は、はっと意識を戻した。
「…っ、なに」
「朝香先輩は、」
 たっぷり躊躇ってから発せられ、途切れた。
 沈黙を埋めるように、風が一陣吹き抜ける。舞い上がる細髪の乱れをそっと直し、ミウカは静かに口を開いた。
「あたし…朝香先輩の好きな人、知ってるんです。莉哉は心配してあたしの傍にいてくれるけど、朝香先輩の気持ち聞いて…。朝香先輩にも、莉哉にも、悪いかなって、思って。距離置いた方がいいのかなって…」
「悪い?」
 真剣そのものの少女には申し訳ないが、思わず素っ頓狂な声になってしまった。
 莉哉にも、ってどういうことだ?
 ミウカは井塚の問い返しが判らないと、きょとんとしていた。
「いや、うん。あのね、朝香に悪いってのは、判る気がするんだけど」
 莉哉はすすんで、自らの意思でミウカちゃんの傍にいるわけで…。
「だって…」言い淀むことなく、いっそ清々しいくらいの明瞭さで断定する。「好きな子に誤解されたら、莉哉困るじゃないですか」
 まさかとは思うけど、つまり、この子は莉哉の好きな子が判ってない…?
「でも、離れるとかって、莉哉の親切心を踏みにじるみたいで…」
 どうしたらいいんでしょう、という視線を投げ掛けてくる。
 成澤であったなら、完全に面白がって話をややこしくしていただろう。ここにいなくて良かった。
「親切心だけじゃないよ」
「え?…と、それって…」
 どういう意味ですか、と問われて、まさか人の想いを勝手に告白するわけにもいかず、ミウカの続きをすっぱり遮った。
「うん、まぁ、それは置いといて。あいつが好きでやってんだ。ミウカちゃんさえ迷惑でなければ、これまで通り仲良くしてやってよ」
 ミウカと莉哉の過去の接点に何があったとかは聞いてないし、詮索する気もない。
 井塚の知る限りでの状況で、この少女に伝えられることは――
「朝香にまだ想いが残ってるのは、あいつも知ってる。だからと言って、中途半端にするのは、正しくはないよね。想いが無いのなら、はっきりと示してやるのが、優しさだよ」
「でも…。気持ちは簡単に切り替えられるものではないですよね」
 だから引き摺ってしまう。想いが強ければ強いほど、長く。
「勿論、そうだね。でも事実は変えられない。莉哉には好きな子がいる。それは朝香ではないんだ。仕方ないの一言で片付けるのは、残酷だって思う?」
 ミウカは押し黙ってしまった。正否の判断はし兼ねる、といったところだろうか。
 ふる、と首を振り、井塚を見る。
「判りません。…ただ、通い合えない想いがあるのは、あまりにも切ない、ですよね」
 どうにもならないと判っていても、言わずにはいられなかった。そんな呟きだった。
「想いが相手と通じ合えたら、みんながそうであったら、幸せなのに」


[短編掲載中]