少女が何を思い浮かべ、呟いたのか、井塚に知る由も無い。
 ただ、これまで辿ってきた少女の人生の中に、当事者であるなしに関わらず、体験としてあるからこその台詞なのだと、想像はついた。
「いいね、それ。そしたらこの世に、争いなんてなくなるのかもな」
 少女の慮外そうな表情は一瞬で消え、了得顔にとって変わる。そしてすぐ、切ない顔になった。逸らされ、井塚がそれを見たのは一秒もなかったのだが。
 表情に落とされた陰が思いのほか、引っ掛かった。
 少女の内側から醸し出される空気の所為なのか、井塚がそう見えると思い込んでしまっただけなのか。
「少し、痩せた?」
 もともと華奢だったが、ここ最近で拍車をかけた気がする。
「そうですか?」
 平静を作ってはいるが、綻びは生じていた。けれど、本人がそうしたいというのなら追及すべきではないと、井塚は判断する。
 あれほど近くにいる莉哉にさえ、平常を貼り付けて見せるくらいなのだ。否、莉哉にだからこそ、なのかもしれないが。
「莉哉もさ、元気ないよ。心配してる」
「えっ?どこか体調が悪いとか、言ってましたか!?」
 自身のことを問われれば、何でもないと応えるくせに、こと自分以外のことには素早く反応する。必死の形相に思わずたじろいだ。
「具合が悪いとかで元気がないわけじゃないよ。なんていうか、気掛かりに気を取られているっていうか。気持ち的な方で」
 少女の勢いに気圧されたのも束の間、体勢を立て直した井塚は安心させてあげられるように否定をする。
 本当に?という含みは残るものの、基本的に井塚のことを信じてくれてるらしく、ミウカはそっと息を吐いた。
「ミウカちゃんはどうして、莉哉をそんなに気にかけるの?」
 異常、と表現すれば聞こえは悪いが、少々尋常ではないというか。
 恋愛感情が存在するならば理解のしようもあるのだが、それは皆無と言ってもいい。莉哉には気の毒な現実ではあるけれど。
 不意を衝かれたように僅かに目を瞠り、少女は押し黙った。
「あ、や。ごめん。何気に訊いただけだから」
 答える必要はないよ、と言おうとして、少女の呟きに意識を奪われた。
「償わなければ、いけないのです」
 小さく、消え入りそうな音量に反して、はっきりとした物言いだった。自身に言い聞かせているようでもあり、自身を責めているような口調。
 発した言葉と浮かんだ表情に対して、井塚はすぐに反応することができなかった。すぐに反応したのは、ミウカ自身だった。
 首を振る。明らかな否定の所作だった。それは傲慢だと、悔いているともとれる。
「莉哉の人生を狂わせてしまったから」
「それってどういう…」
 返ってきたのはか細い微笑みだけだった。儚く脆い。
「責任をとれるとは思ってなくて…。でも、なにもしないわけにはいかないんです」
 消え入りそうな微笑は、あまりにも綺麗で。
 井塚の意識は恍惚の淵に囚われ、ふいと再び仰ぐミウカにつられ、そちらを見遣った。

 ――少女が思い出した面影を、井塚が知る筈もなく。
 遠い異世界で、今は亡き片割れ。
 もっと何かが違っていたら、もっと想いが通じていたら、違う結末があったのかもしれなくて。

「ハルって、誰のこと?」
 当然の質問を井塚は少女にぶつけただけだったのに、返ってきたのは、心底驚いた顔。そっちの方にこそ、井塚は驚いてしまった。
「え?」少女は問い返す。
「今、ハルって」井塚は繰り返した。
 無意識に呼んでいたことに対して羞恥心が込み上げたのか、少女の顔で熱が弾けた。
「兄…なんです。……兄を、思い出してました」
 切なる眼差しを思い出す。それはつまり、この世にいない人ということで。
「…ごめん」
「いえ…。でも兄はたぶん、こんな風に近づかなくても、傍にいてくれてるんですよね」
 大人びた微笑だった。まるで年齢にそぐわない。眼差しに、陰がみえる。
「ミウカちゃんってさ、どことなく線引いて人と向かい合うよね」
「…?」
「仲良くなりたい、君のこと知りたいって思っても、壁があるんだ。なんでもかんでも曝け出せる人間なんていないし、どこまでも踏み込むのが正しいとは言わないけど、ミウカちゃんの場合、その壁が厚すぎるってゆーかさ」
 少女は黙していた。
 井塚は莉哉の言動を思い出し、彼の心情を想像し、続けた。莉哉の為に、などという大義名分があったわけじゃない。興味本位でもない。
「莉哉は、君がそうなってしまう原因を、知ってるの?」
「――判ってると、思います」
 相手の意図が読めず戸惑いを露わにした少女に、表情を軟化させた。
「だったら尚更だ」
 ほどけた空気にミウカもやっと、僅かに警戒を解いた。
「尚更、ですか?」
「あいつには甘えてやってよ。意外と頼りにできる奴かもよ?」


[短編掲載中]