泣かない、ということ。
 甘えない、ということ。

 少女が己に課した理由は単純で、ただ、弱くなりたくなかったからだ。それらを弱さの象徴と捉えていたからだった。
 生来の宿命により、たった数年でも、生きてきた過程により、少女の下した決意だ。
 それを揺るがすということは、自身の根底を揺るがすことと等位だった。



 前のように硬質な物を投げてこなくなっても、それは決して歩み寄りの証拠ではないし、途切れなく投げられれば、気持ちを強く持ち続けるのは困難だ。ひっきりなしに飛んでくる物に対して顔を覆う程度の防御はしても、基本的にはされるがままになっていた。後退したり退室したりはしない。
 身の回りで投げられるものには限りがある。止むのをひたすら耐え待つのが最善だった。拒絶をあからさまにされれば辛くとも、凌ぐ他に選択肢はなく。
 ルイに誤解され、解く間を与えられないまま数日。毎日病室を訪れても変化はなく、漠然と時間が過ぎるばかり。
 心身共に、平静を保つのも厳しくなりつつあった。
 かといって、良策をミウカは知らない。《魄》を抜き出した後のルイがどうなるかも。安心させてあげられる現実を、知らない。
 明確なのは、ターニアが言っていた『鎖』の正体が、ルイの『意志』だったということ。
 莉哉に起きていること、起こりうること。静かに“見た”ままを告げるターニアの顔を、明瞭に覚えている。
 ――絡み合った『鎖』に囚われています。ほどかなければ《魄》はリイヤ様に戻りません。
 ――では、それを断ち切ればいいのだな。
 容易いと、甘く考えていたのかもしれない。この時のミウカは、物質としてそれをイメージしていた。失われた《魄》はどこかの場所に『鎖』で繋がれているのだと。
 短絡的だと、今更悔やんだところで前進は有り得ない。ターニアとて事態の細部まで見えていたかは不明だ。
 唇を引き結んだ。指先に力を入れる。強く、強く。
「落ち着いて、ルイ。話を聞いて」
 物を投げる間隔がまばらになり、ようやと宥めに入る。興奮し続けるのはルイの負担になるだけで、気はそちらに取られがちだ。
「嫌!勝手なことばっかり言うのなんか聞かない!出てってよ!!」
 投げられる物が途絶え、花瓶に手が伸びた。掴み振りかざした腕が、中途半端な位置で止まる。しおしおと降ろしたそれに、二人の目線がいった。
「どうなってもいいだなんて、思えるわけがない」
 ルイは無言だった。じっと手の中の花瓶を見つめ、動かない。
「ルイ、」
 躊躇いがちな呼び掛けは、ばっと顔を上げ唾棄するようなルイの声に遮られる。
「出てってくんないっ?」
 それだけを言うと、そっぽを向いてしまった。話すことも聞く耳もないという意志表示だ。小さく息を洩らし、引き際を決める。
「明日も来るね」と残し、ミウカは廊下へ出た。後ろ手でドアを閉め、そのまま寄り掛かった。長く息を吐き出す。
 毎日通っている中で、同じ繰り返しの中で、一つ変化があった。またくるよ、とミウカが言った後、拒否の言葉が無かった。
 善進と、考えてもいいのだろうか。
 俯き足元を睨み付ける。一刻をも争う状況は不変なのに。ぎり、と奥歯を噛み締めた時、名を呼ばれ視線を動かした。
「莉哉…。今日も来たんだ」
「お互い様だろ。……ミウカ、力抜いて」
 優しい手つきでミウカの両手をとる。堅く作られていた拳をぎこちなく緩めた。掌に爪が食い込み、血が滲んでいた。手の脱力と共に、目眩が起こる。
 予想通りの展開に苦虫を潰し、莉哉は傾いだミウカの身体を支えた。

 待合室まで移動し、ミウカを長椅子に座らせる。正面で片膝をつき「分けてもらったんだ」と言いながら、莉哉は消毒液とガーゼと包帯で手当てしていく。
 掌に残る爪痕。治る兆しをみせるより早く、新たに深く傷を穿つ。
 力から開放されたミウカの手は、意志では止められぬほど震えていた。精神の張り詰められる限界を超えても尚、繕う為にミウカは拳を作る。平静に見せかけたいが為に。
 莉哉には止める術がなかった。躍起になる少女を、止められる者はいない。善処の方法は見つからず、焦燥だけが空回りする。
「きつい?」
「ちょうどいい。巻き方巧くなったよな。毎日やってもらってるから、か」
 冗談めかしてミウカは言い、笑った。返事が出来ず、作業を続ける。莉哉が問うたのは包帯の巻き方なんかではない。判っていて、誤魔化すのだ。
「完了」
「ありがとう」
 応急セットを片しながらミウカの横に座る。頭を引き寄せ、肩にもたせ掛けた。
「休憩してろ。香椎がきたら、起こしてやっから」
 少女は抵抗しなかった。これまでであれば顔を真っ赤に染めて飛び退いているところだ。
 もぞ、と体勢を楽なように動かし、身体を預けてきた。目蓋を降ろす。少しだけ、安らいだ表情に見えたのは、単に莉哉の希望からなる幻影だったのかもしれない。
 仕事を終えて直行してきた逸と合流し、病室に顔を出すも糠に釘で、ミウカを連れ帰路についていった。
 ルイの気持ちは判らなくはない。莉哉も同じ立場だと言える。
 不安が大きく占めているのだろう。結果、苛立ちが前面に立つ。混乱し、戸惑っている状態が続いている。
 ミウカと逸を見送り、莉哉は病院の敷地内にある草地に寄った。入院していた頃に多くの時間を過ごした場所だ。ルイと初めて会った場所でもある。
 この世界に戻ってきた時にはすでに、《魂》は欠落しラスタールに残り、《魄》はルイの内に。その所為でミウカはこちらに来、己を削っている。
 俺が諦めても、辞めろと言っても、ミウカには聞こえない。聞こうとはしない。
「まだいたんだ」
 人の気配にまるで気づかなかった。身体が強張り、だがすぐに警戒を解いた。ルイが近づいてくる。意識を現実に戻せば、下草の鳴る足音ははっきりと耳に届いた。
 パジャマにカーディガンを羽織っているルイは無表情で、出会った日と同じ展開なのに、まるっきりだぶらない。
「毎日、毎日。よく来るよね」
 うんざりした口調でルイは少し距離を置いて座った。莉哉を見ない。見つめる先にあるのは何なのか。現実に対する、非難だろうか。
「必死なんだよ」
 嘲るように笑う。
 問題ないよ、と言えないくせに、要求ばかりを提示している。勝手にもほどがある。
「そんなに、自分達が大事?」
 改めて口にしなくても、言い尽くした台詞が続いた気がした。他はどうなっても構わないんでしょう?と。
 招かれた誤解は片意地にもつれ、がんじがらめのそれは、解けない。
「大事だよ。そこには君も含まれている」
 押し黙り、そこから考えていることは汲み取れない。白々しいと鼻であしらうでも、嘘だと決め付けるでもない。ただただじっと、目の前を睨みつけていた。
 落ち着き払った声で莉哉は続けた。今なら、気持ちが届くかもしれない。
「ミウカは君であってもなくても、手段があるなら、いや、無くても救おうとする。…誰かを選ぶとかどちらかを棄てるとか、無い。例え仇であっても、迷わずそうするよ」
 馬鹿みたいに真っ直ぐで、懸命で。
 だから前に進もうとするのを、自分が障害になるのだけは避けたかった。背中を押してやれる存在でありたかった。
「そんなに自分の生命が大事?」
 似たような質問をルイは繰り返した。莉哉は穏やかに微笑み、返事を返す。
「違うよ。ミウカを解放したいんだ」
 自分の為にミウカが“何か”に囚われ続けるのは耐えられない。真正面を向いていく少女を護りたいと願う。
 この件が終わらない限り、少女は解放されない。自分の為に、自分の人生を生きられない。
「だから喩え、俺がどうかなるとしても、構わないんだ」
 一度は決めた覚悟だ。失う筈だった生命。ほんの少し、時がずれただけ。来るべき時が遅れてやってきただけ。
 再び逢うことが叶った。それだけでもう、満足しなければいけない。
 短い時間だけだったとしても、こうして莉哉が産まれた世界で同じ時を過ごせただけ、幸せだったと言えるだろう。
「なにもかもを望みたくても、自分の存在が相手を苦しめるしかないのだったら、運命を受け入れる方を、俺は選ぶ」
「怖く、ないの?死ぬってことなんでしょう?」
「ミウカに逢う前は、それを漠然と恐怖の対象にしてた。けど、向こうで大切な人が護ろうとするものを護ることができるって、その力が自分にあったんだって思ったら、すげー嬉しかったんだ。それだけで、誇りにできる」
「ミウちゃんが、好きなんだね」
 意を突かれ、言葉に詰まる。どう応えるべきか逡巡し、結局沈黙した。肯定も否定もしない。
 ルイは頓着せず、想いを口にした。明確な回答がほしかったわけではないのかもしれない。
「ルイもね、ミウちゃんが好きなの」


[短編掲載中]