朝のホームルームの直後、普段の喧騒に、小気味いいほど潔い開音が教室内を駆け抜けた。ついさっき担任が出て行った前側の扉が全開になっていて、そこに仁王立ちしている人物に注目が集まる。
「貴奈津ミウカ。ちょっと、こい」
 常が端的にぶっきらぼうな話し振りなので、彼をよく知らない人物であれば平常だと思うところだろう。
 今や身近な人と言っても大袈裟ではない位置にいる人物が発する、この声質の示す感情を、ミウカだけが感じ取っていた。無視しようものなら後が面倒臭い。
「逸にぃ…じゃなくて、香椎先生。――授業が始まるんで、」
「いいから、こい」
 そこそこの物理的な距離をものともせず、圧は実直に伝播した。僅かに身を竦ませ、覚悟を決める。もとより、登校を決めた時点で想定していたことだった。この直後にある説教を思うと憂鬱だったが、仕方ない。

 素直に従い保健室まで連行される。このままでは授業をさぼることになりかねないのだが、口にできなかった。前を歩く逸の背中は、怒りに満ちていた。
 推量を遥に超えてるかも…。
 先に室内へ入った逸は苛立たしそうに執務机に浅く腰を降ろした。
 じり、と後退しつつ、刺々しい視線を見つめ返す。逸がここまで露骨に感情を出しているのは珍しい。
 下手に言い募るよりは、相手の出方を待つ方がいい、何を言っても言い訳にしかならないのだ。と判断し、ミウカは押し黙っていた。
「休めってのを聞いてなかったか?」
「――平気だったから。何日も寝てらんないよ」
 おず、としながらも明確な物言いを返す。身体を動かせる状態なのに、天井を眺めているだけなど無理だ。
 ここ数日、ミウカは学校を休んでいた。とても動ける状態ではなかったからだ。見舞いに訪れた莉哉は、ことごとく門前払いを受けている。
 メールではくどいくらいに「だいじをとっているだけだから」と無事を強調してはいたけれど、心配性の莉哉がそれを聴容するわけはなく。
「素路の様子は俺も気に掛けている。ちゃんと報告してるだろうが」
 毎日元気に玄関先で粘るくらいにな、とうんざりした口調を付け加えた。
 騒ぎ立てることはなくても、日毎粘り強さは経過時間に比例して強くなっていったらしい。微かに繋ぎ留めていた意識で、ミウカもそれは把握していた。
 数秒だけでも顔を見せられれば良かったのかもしれないが、現実はそれを許さなかった。顔を見せれば余計に、心配の度合いを増加させるのが目に見えていた。
「逸兄を信用していないわけじゃない。自分の目で確かめていないと、あたしが不安なんだ」
 臨界点は、自身が自覚するよりも大幅に、超えていた。【赤銅】の代償然として起き上がることが叶わず、ミウカは学校を休んだ。
 自力で身体を起こせた朝もあったのだが、制服に着替えようとして、逸の雷が落ちた。怒鳴ることない声が逆に、有無を言わせぬ空気を放っていた。
 状態の悪化は、あの時よりも更に、濃度を増している。
「それで、このざまか」
 大仰な溜息と共に吐き出す憤怒は、隠す気が毛頭ないことを示している。
 引くわけにいかないとばかりに、凛と背筋を伸ばした。軽くならないよう注意しながら、空とぼける。
「このざまって?」
 少女の精神も身体も俊敏に反応できずにいた。にゅっと伸ばされた腕の陰が顔にかかる。ぺち、とおでこに微細な衝撃が当たり、力加減に反比例する勢いでミウカの身体は大きくよろめいた。ミウカのおでこを小突いた逸の掌が滑らかに動き、二の腕を掴む。
 膝から折れそうになるのをかろうじて自力で留め、逸に支えられつつ体勢を立て直す。
「このざま、を言ってる」
 据えた目が見下ろしているのは容易に想像できた。顔が上げられない。言い返す言葉もない。
「座れ」
 言葉遣いとは裏腹に、先ほどにはなかった温度のある溜息が降ってきた。ベッドに座るように促され、素直に従う。
「送ってく。これから会議入ってるから、その後になるが」
「仕事放り出すわけにいかないでしょ。あたし、帰んないし」
 両手をついて立ち上がろうとして、二度目の小突きが入る。今度は肩を押され、簡単に重心はベッドの上に戻った。ミウカの正面に仁王立ちする逸の陰が、少女をすっぽりと包み込む。
「放り出すわけじゃねぇ。送り届けたら戻ってくる。それに、お前はついでだ。ついで」
「ついで?」
「そこにも無理して登校して、くたってんのがいんだよ」
 顔をしゃくって示した先のベッドにはカーテンがかかっていた。注意してみれば、寝息が聞こえてくる。風が吹いて、隙間から寝顔が覗いた。朝香だ。
「あっちは風邪だな。校内で流行ってきてんだろ?併発したらしゃれにならん。完全回復するまでは外出禁止」
 まるっきり兄口調だ。逸にしてみればミウカも妹同然といったところで、常であれば一応、対応はルイとは区別しているのだが、こんな状況では不要と判断したらしい。
 返答らしい返答を返してこないミウカに、一歩分陰が近くなる。
「まだ言うことがあんのか」
 俺に聞く耳はねぇぞ、と逸の睨みが突き刺さった。
「逸兄、」
 すかさずの溜息に、ミウカは黙るしかなかった。心配しているからこそ、怒っているのだ。寄せられる厚意を無下にはできない。
 別世界にいた頃、人からの厚意など数えるほどしか知らなかった。
 それでも構わなかった。ほんの少しだけであっても、かけがえのないほどの温度を持つものがあったから。
 少女がこれまで受けてきたのは、敵意であり、嫌悪であり、奸心だった。それらは当為であると、本人も甘んじて受けてきた。それこそが普通で。
 稀少な感情を真っ直ぐにぶつけられるほど、心がくすぐったく、顔を覆ってしまいたくなっていた。素直に嬉しいのだが、素直に受けるのが難しかった。してはいけないことだと、決め付けてきた。
 けれど自身の内では、いつも感謝していた。言葉に言い尽くせないそれを返し切れなかったと、思い出しては悔やむほどに。
「――俺、言ったよな。忘れてんなら、もういっぺん言ってやろうか」
「……」
「頼りにできる奴を作れ。――誰でもいい。俺が不満なら…あー、素路は駄目だしな。他でも、」
「不満とか、そんなの思うわけないっ!逸兄には感謝し、」
 三度にゅっと延びてきた陰は、ミウカが言い終わらないうちに彼女の髪をくしゃりとした。逸の表情が緩む。
「だったら、頼れ。できる総てで対応してやる」
 心があたたかくなる。ナラダにいた頃にも感じた、あたたかさだ。
「――あ…りがと…」
「天邪鬼もほどほどにしろ。無理すんのが正しいとは限らないだろ。とにかく、待ってろ。ちゃっちゃと終わらせてくるから。いいな?」
「…う、ん」
「納得してねーなら、軟禁するぞ」
 教員が言う台詞とは思えない、と心の中で呟き、少女はこっくりと頷いた。
「――うん、待ってる」
 逸は「安静にしてろよ」を捨て台詞を残して、保健室を出て行った。


[短編掲載中]