職員会議は予想通りに早くに終わったのか、逸が強制的に終わらせたのかは定かではないが、宣言通り短時間で逸は戻ってきた。先に駐車場へ行くようにと指示を出し、自分は職員室へ鍵を置きに戻っていった。
 傍目で見れば沈着冷静そのものだったが、職員室に隣接する会議室から、たった一言の指示を伝える為だけに保健室に顔を出し、職員室に戻っていくという要領の悪い動きは、内情が異なっていることを示していた。
 車を開け、後部座席に朝香を座らせる。辛かったら横になってて下さいね、との声かけに、ぼんやりとした返答が返ってきた。
 ここでも天邪鬼を最大限発揮するミウカは、せめて朝香が不安にならない程度の虚勢を張ることには成功していた。逸に見つかると小言を言われること必須なので、早々に車に乗り込むことを決める。が、助手席へと廻る途中、背後から声が投げ付けられた。
「やーっと見つけた。捜したぜ」
 粘着質の声質。不快そのものの口調に、聞き覚えはあった。身体を反転させ、目視する。
「それで、」
 近づいてくる相手は、追い詰めるのが楽しいという笑みを浮かべていた。
 じりじりと距離を狭めてくる相手を見据えて、ミウカは内心辟易していた。体調が平常であったとしても、顔を見ただけで疲労感が押し寄せていただろう。
 車内にいる朝香が見えないようにと立ちはだかった。にやけた顔が近づいてくるのを、嫌悪感たっぷりに睨み返す。見たことのある顔だった。
 どうしてここが。浮かんで当然の考えは、腕を掴まれ力任せに引き寄せられることで遮断された。
「今日こそちゃんと、相手してもらわねーとな」
 前回と変わらずの強引さに考えることを中断する。なんにせよ、標的は自分であって、切り抜けなければいけないことに変わりはない。
 精神を研ぎ澄ます。臨戦体勢をとろうとして、眩暈がした。
 くそっ…!ハル、頼む。力を、貸してくれ…!
 気持ちだけでは機敏に動ける自信が持てなかった。縋る想いを心の中で叫んだその時、あの、ふわりとした感触が舞い降りた。
「ぐっ…!?」
 悲鳴を殺してうずくまったのは、男の方で。
 きつく腕を掴まれ頭に血が昇ったのに加え、不調の真っ只中にあったミウカに力加減はつけられなかった。
 引力を利用して膝を相手のみぞおちに捻じり込んだ。足先が軽やかに地に触れ、それはすぐに再び宙へと持ち上がる。横面を蹴り飛ばし、舞うが如く回転して着地する。立て続けの攻撃に男は膝を付き咳き込む。すでに少女の標的は次へと移行していた。
 ミウカが車から離れた隙に、後部座席から朝香を引きずり出そうとしている男達に向かう。
 事の中心人物であったであろう男のやられっぷりに行動の進行は停止し、嫌がる朝香を掴んだまま、間抜け面が少女を捕らえていた。こちらも見たことのある顔だった。
 ビルの隙間で、朝香を囲っていた連中。あっさりとあの場を終結させたミウカを、ずっと捜していたということなのだろう。
 地を蹴ったミウカの動きに我を取り戻し、一人が拳を振り上げた。かわした流れで低姿勢をとり、足首を蹴った。バランスを崩しよろめいた背中に肘を入れ、未だ朝香を掴む男の腕を蹴る。鈍い音を上げて、男の手が朝香を解放した。
 速度についていけない朝香は傾ぎ、ミウカの手が支えようと伸びる。目を見開いた朝香の瞳の中に、ミウカの背後に立つ影が映し出されていた。
 棒状の何かかが、振り上げられていた。視力の残っていない左側から、風をきる音がした。
 ミウカに避けるだけの術はなく、狙われた通りに衝撃が入った。踏ん張ることができず、地面が少女の身体に擦り傷を穿つ。
 気力だけが、少女を動かす。ここで意識を手放すわけにいかない。
 掌に握った土を、見下ろす男目掛けて投げ付けた。油断が生じていた男の顔に飛び散る。逃げ道の隙は作られた。
「先輩!」
 差し出した手を握り、二人は駆け出した。激痛にうずくまる男達を振り切るべく。
「待て!!」
 声だけが追いかけてくるが、従うわけはない。病気の朝香を連れ、自身の体調不良もあり、いくら元のミウカの身体能力が高くても結果は顕然だった。奇襲をかけてくるくらいなのだから、追いかける方としても腕に覚えのある者だ。
 追跡を開始できる者が、一人また一人と動き出す。
「貴奈津さん、あそこ!」
 ミウカに引かれている朝香が指差す方向に、運動部の部室があった。長屋を連想させるブロック壁の建屋には、等間隔に横一列に並ぶ扉が数箇所ある。
 朝香を振り返り頷いて、さらに後方を見据える。複雑に遁路をとったおかげで、まだ姿は確認できなかった。
 幸い、鍵のかかっていない扉が一つだけあった。風を巻き込んで大きく開け、朝香を先に入れる。
「貴奈津さん!?」
 押し込める強引さに驚き、振り返った朝香は目を瞠る。ミウカは敷居を跨がず、外界に屹立していた。人差し指を唇にあて、穏やかな表情をみせている。
「早く、中に入って…!」
 ミウカを引き入れようとする手を、やんわりと拒絶した。
「奴等が通り過ぎたら、逃げて下さい」
「なに言ってるの!?」
「助けを呼びにいくとか、考えないで。逃げることだけ考えて下さいね」
 今にも扉を閉めそうな動きは、自身が囮になるのだと示していた。
「駄目よ!貴奈津さん!」
「一人ならどうとでもできます。約束して下さい。先輩が逃げられたんだって安心感がなければ、あたしも集中して逃げられませんから」
 おどけてみせる口調はしっかりしてさえいた。
「だけどっ、」
「約束、して下さいね」
 朝香が引き下がるとは思っていなかった。かといって、ここで押し問答していたら意味がない。狙いが自分だけというなら、万が一で遣り過ごせるかもしれない。駄目で元々だ。
 自分で招いた事態は、自分で後始末すべきだ。
 笑みを携え、ミウカは朝香との接触を強制終了させた。扉をぴったりと閉じ、駆け出す。
 まだ動ける。まだ、いける。
 苦境にたたされても、何度も潜り抜けてきた。身体がついてこなくても、精神力で補填してでも、遣り遂げなければいけないことはある。


[短編掲載中]