「いたぞ!」
 相手との距離を測り、注視しているのが自分のみだと確認し、足を動かす。
 徐々に狭まる距離間は、原動の源を奪っていく。もつれがちになる足取りは制御不能になり、速度は落ちていく。追いかけてくる声は段々張り上げる音量でなくとも耳に届くようになった。もう後ろを見て確認する必要がないほどに、対象は迫っているのだと背中で感じていた。
 視界の端に、後方からの手が見えた。肩を掴まんとして伸ばされたそれは、空を切る。すんでで角を曲がった少女は、直後、正面から衝突した。
 先回りしてた!?
 相手の顔を見るよりも先に横に飛び退こうとした。が、一度緩められた勢いが瞬時に復活することはなく、ガッチリと捕獲される。
「放せ…っ!」
「ミウカちゃん!」
「――…え?」
 ミウカを捕まえた影とは別に、さっと走り抜けた影があった。自分の正面にいる人物を見上げ、通り過ぎて行った影を追いかけ見る。
「井塚先輩…?――ナル先輩…」
 戻した視線の先にいる井塚はミウカに微笑む。肩を抱く手は優しく、少女を支えていた。
 成澤はどこから持ち出してきたのか、竹刀を手にしていた。ただ、闇雲に振り回してはおらず、追い払うだけを目的にしている風でもなく、応戦していた。
「あれでなかなか、腕っ節はいいよ」
 心配そうに動向を見守っているミウカを安心させる為、井塚はわざと軽い口調をとった。その口調通り、優勢がどちらにあるかは瞭然だった。
 ミウカによるダメージに加え、成澤からも追撃を受け、幾許も経たないうちに男達は地面の上で呻く塊となった。それを足蹴にしている成澤からのガッツポーズに、ようやと安堵の息を吐く。
「でも、どうして…」
 二人と同じクラスである莉哉の姿はない。一緒にいる姿ばかりを見ているので、違和感を覚えずにはいられなかった。
「理科室で授業だったんだ。外を見たら走ってる君が見えて、後にくっついてる奴等は怪しかったし、」
 被せて成澤が後を続ける。竹刀を肩に乗せ、軽い運動をした後のように爽やかに笑う。
「莉哉とは班が離れててさ、あいつには内緒でこっそり抜け出してきた」
 二人に悪びれた様子は全く無く、どこか誇らしげでもあった。そんな雰囲気に飲み込まれず、ミウカは井塚の腕を掴み返す。
「朝香先輩は!?」
 逃走経路をとって返そうとする。あのまま隠れていてくれたなら無事は間違いないが、 姿を見ないことには到底安心できない。
「無事だよ」
 井塚の声と、ミウカが朝香の姿を確認するのはほぼ同時だった。近づいてくる逸に支えられてはいるものの、自身の足で歩いている。
「よか、った…」
「ミウカちゃん!?」
 途端少女は膝から折れ、井塚へと崩れ込んでくる。
「安心したんだろ」
 傍まできていた逸がミウカを覗き込み、常と変わらない端的な言葉を落とす。端整な造りの顔は無表情で、思考は読み取れない。
 井塚の腕に圧し掛かる少女の重みは想像していたよりも遥に軽く、壊れてしまいそうだった。儚さは一層増している。
「どこか悪いんじゃ、」
 思わずついて出ていた井塚は途中で先を飲み込んだ。自分に向けられた逸の視線が、追及を阻んでいる。
「問題ない。こいつは俺が預かろう」
 反対する理由はなく、受け入れ態勢の逸へと少女を移行する。
「役得だったなぁ、井塚」
 場に流れている空気を一新しようと呑気な声を出したのかどうかは定かではないが、成澤の茶化しが割り込んだ。
 逸の放つ拒絶に踏み込むことはできない。ならばここは成澤に便乗するのが良策とばかりに、井塚は呆れた声音を作った。
「ヤツの怒りを買いたいのなら、いくらでも代わってやるよ」
 そんなのは要らないと、成澤は露骨に嫌そうな顔を作った。
「後は俺が処理しとく、お前らは授業に戻れ」
 騒ぎを聞きつけ、校舎内から現場を見だす生徒の数が増えてきていた。駆け付ける他の先生達が見え、井塚と成澤は方向転換し歩き出した。
 その背中を逸は呼び止める。
 振り返り、すっぽりと腕に抱えられ目蓋を降ろした少女と、それをしかと抱きとめている逸の姿に、二人は思わずドキリとした。
 あまりにも自然体で、あまりにも絵になる姿だった。
「ありがとうな。助かったよ」
 逸は柔和に表情を緩め少女を見下ろす。
 校内で見せているものとはまるで異なるそれに、またぞろドキリとさせられた。


[短編掲載中]