『ちゃんと戻るから。心配は要らない』

 卓上に残されたメッセージを、額面通りに解釈するのは不可能で。
 メモに添えるように置かれた携帯電話が、捜すなと暗示していた。逸から連絡を受けて以降、莉哉は走り廻っている。
 回起する記憶に、泉のほとりで佇む少女の後ろ姿が蘇る。
 どこかで泣いてはいないだろうか。独りで苦しんではいないだろうか。なにより、身体のことが心配だった。
 思い当たる節を駈けずり廻り、逸と連絡を取り合う。
 自由の利かない逸に代わって動き廻れるのは莉哉なのだが、限界はある。体力を消耗するだけで成果は一つとして挙がらなかった。
『見つかったか?』
『まだ』
『他に思い当たる所は?』
 捜索開始以降、同じような内容ばかりが互いの送受信フォルダを埋めていく。
 場所を変えても状況を変えても、俺はミウカを捜す運命にあるみたいだ。
 内側から皮肉な笑いが聞こえた気がした。どんなに躍起になったところで、お前に捕まえられるものではないと。
 姿が見えないというだけで、こんなにも気持ちは不安定になる。心臓が痛いくらいに鼓動を刻んでいた。
『一度戻ってみる』
 逸に宛てたメールの送信完了直後、莉哉は携帯をポケットに捻じり込んだ。
 総ての思い当たる節をあたっても見つからず、ただ闇雲に走り回っても仕方がない。どこかですれ違っているのなら、一旦元に戻ってみるのも一つの方法だ。
 思い立ったら即行動。莉哉は香椎宅を目指した。


 手が震え、鍵穴に巧く差し込むことができなかった。焦るほどに苛立ちが先行し、もどかしさに舌打ちした。
 金属のぶつかり合う音の向こうから、部屋の中から、足音が聞こえた。ぱたぱたと走り寄るそれを、莉哉は完全に勘違いしていた。冷静であれば容易く判ることなのに。
「ミウカか!?」「ミウちゃん!?」
 内からと外からと同時に開けられた扉。対面した二つの顔。互いに確認し、落胆した。
「莉哉さん!」
「…ルイ、なんでここに…」
 ふと捉えたのは、ルイの手に握られている一輪の花。ミウカがルイにと選ぶ花束に、必ず入っている花だった。
「それは?」
「たぶん、ミウちゃんが置いていったんだと思う」
「病室に行ったのか!?」
 状況を思い出しているのか、ルイの表情は硬い。力なく首を横に振る。
「ドアの向こうで物音がして、あたしが廊下に出た時にはこれだけが残されてたの…」
 花を持ち上げるルイの手は、震えていた。
 どんな仕打ちを受けようとも必ずルイの前に顔を出していたミウカが、花だけを置いて帰ったという事実に、よからぬことを連想する。ここ数日病院を訪れられなかった理由を逸からそれとなく聞いていることも、不安を煽る原因だった。
 いてもたってもいられなくなり、無断で病院を抜け出してきたとルイの表情が語る。
 ドアを開けようとする音に玄関へと飛び出してみたものの、そこにいたのは互いに憂慮を煽る存在で。
「ミウちゃん、いなくなったの?」
 明るい髪色さえも暗く染めてしまいそうな莉哉の蒼白さに、ルイは胸を押さえつけた。まるでそうでもしていないと心臓が押し潰されそうになるといった風に。
「見つからないの!?」
 莉哉の返答を待たずして、ルイは脇を摺り抜けようとする。莉哉はそれを掴まえ、室内へと戻す。睨み上げられようと、引く気はなかった。
 体調不良をおしてここにいることは、ルイの顔色を見れば判る。これ以上の無理をさせるわけにはいかない。
「ルイはここにいてくれ。ミウカが戻ってくるかもしれない」
 不承の少女が口を開く前に、断言する。
「ミウカは俺が見つけるから。必ず、見つける」




 せせらぎに対峙して、少女はそこにいた。兄の声を聞いたのだと、言っていた場所だ。
 声を掛けることさえ、憚られる後ろ姿。今にも消えてしまいそうに見えるのは、莉哉の心情を表しているからなのか。
 走り続けていた所為で莉哉の息は上がり、汗が流れるほど体温は上昇していたが、陽はすっかり姿を隠した刻だ。流れる空気は肌に刺さるほど冷たい。
 躊躇ってる場合じゃない。
 意を決し近づいた。足音が向かっていても少女は振り返らなかった。微動だにしない。
 上着を華奢な肩に被せる。ゆるりと動き、少女が莉哉を見つけた。闇よりも深い色が瞳の中に揺らめいている。
 互いに言葉は無く、莉哉は隣に座った。
 月に照らされる白い頬は陶器のごとく滑らかで、細髪が艶やかに風に揺らされる。額の左側に施された手当ての痕が、あの時とだぶる。
「心配した。するなというのは、無理な相談だ」
「うん」
「帰ろう」
「うん」
 機械的に、無機質に返すだけの返事。意志も感情も意味も、見当たらない。
「ミウカ」
「…ん」
「どう言ったら、君は…」
「自分の為、なんだ」
 ぽつりと零れた。けれど強力な塞き止めで。
 穴が開くほどに少女の横顔を見つめた。そこに答えが刻まれるのを待つように。
「護りたい。強く願う。望んでる」
「ミウカ、それはっ、」
「莉哉が消えると知った時、心臓を鷲掴みにされた気分だった。――これは…、自分の我儘だ」
 淡々と聞こえるようで、激しい心情が垣間見えるような語調だった。
「どこが、我儘なんだよ」莉夜は眉をひそめた。「違うだろ。それは、違うっ…!」
「大切だから…。大切な者を失いたくない。願わくば、総てを護りたかった」
 己が護りたいと願うものを護ろうとする。それが、我儘だというのか。
「そういうのって、嬉しいよ。…けどな、」
 思い出すのは異世界での少女。頑なに莉哉を護ろうとした理由。自然、声が荒れた。
「……俺だって、願い続けてきたんだ」
 君を護りたいと。何度も繰り返し望んだ。


[短編掲載中]