「ミウちゃんっ!!」

 二人は同時に振り返った。逸とルイが駆け寄ってくる。
 ミウカは言葉を失っていた。まるで信じられない光景を目の当たりに、それの状況を把握しようとするように、目一杯瞳を見開いていた。
 その瞳に映るのはルイだけ。
 目が合った瞬間から速度を緩め、逸に促され躊躇いがちに近づいてくるルイに、今までの憤りは見当たらない。純粋に憂いがあるだけだ。
「ルイ、来てくれたの?…迎えに?」
 素直に台詞にするのは羞恥心からなのか、ルイは押し黙り、逸に頭を小突かれていた。ふっと表情を緩め微笑む。
「良かった。一緒にここに来れること、ないと思ってたから、」
 区切った続きを、そこにいた誰もが想像した。ミウカはそれを飲み下し、代わりを紡いだ。
「一緒に見られて、嬉しい」
 そっと、細く微笑んだ。力尽き、消えゆく儚さだ。
 莉哉の目に映る少女が、ゆっくりとぶれる。
「すまな、い…。願うばかりだな…」
 ゆっくりと、傾いでいく。
「自分は、誰も救えなかった。――すまない…」
 三人が同時に名前を呼んだ。莉哉の腕は少女を支え、駆け付けた逸が少女を視診する。場に縫い付けられたままのルイは、蒼白なまま注視するしかなかった。
 身体からずり落ちた手にしかと握られているもの。三人の視線が集中する。指の隙間から片鱗を見せるのは、少女が護り抜こうとするもので。
 おそるおそる近づいたルイが、ミウカのもう片方の手をとった。少しの力も入っていない掌は、ルイが引き寄せたことで緩やかに開かれた。
「これ、傷…」
 答えを伝えられなくても、ルイには判っていた。病室に来る度、ルイと向かい合う度、この手が硬く結ばれていたことを。
 けれど、それでもミウカは凛として、少しも辛いところを見せなくて。今やっと知り得た。痛みや苦しみの証だったのだと。
 桜色に綻んでいた唇から色は奪われ、滑らかな頬に生気はない。まともに顔を見るのはいつ以来だったろうか。今だ血が滲むミウカの手を、ルイは優しくしっかりと握り締めた。
「ルイはミウちゃんが好きなんだ」
 誰に聞かせるでもなく、自分に向けて呟く。
 ルイは堅く結ばれた《聖珠》を持つ手を開かせた。ルイの掌に移動したそれは、輝きを失いつつあった。けれど莉哉の心身に変化はない。
 とうに己の意識を手放しているミウカは、紡ぎ続けることを止めない。それこそが生命であるとするかのように。
「ミウカッ。ミウカ…ッ。……もう、いい。やめてくれ。…頼むっ…!!」
 ぎゅっとか細い身体を抱き締めた莉哉の懇願はくぐもっていた。ルイは手の中に転がる珠を見つめ、唇を引き結ぶ。その時ふと、頭に直接響く声。
 ――心臓のあたりに…。還るべき位置へ…。
 疑問が湧くより、素直に従っていた。これは導く声だ。ミウカを、莉哉を、救う声だ。信用に足ると、本能が悟る。
 莉哉の胸のあたりに掲げられた《聖珠》は元の、本来あるべき場所へ還ろうと、内部の光源が蠢いた。
「お願い。二人を助けて」
 ルイの願いが緩やかに夜に溶けた。
 ――強い想いは、必ず届く…。
 導く声は莉哉にも届いていた。彼は知っていた。声の主を。少女と同じ色を纏っていた者なのだと。
 ハル…。
 彼が救いたいのはたぶん、自分ではない。結果として莉哉が救われるだけのこと。莉哉の望みも同一だ。真っ先に救いたいのは、自分じゃない。
 莉哉はそっと《聖珠》に触れた。純白の光があたり一帯を強く照らし出す。
 天を焦がすほどに、闇を払拭するほどに、夜気を切り裂くほどに。強烈な光は攻撃的に見えて、だが包まれるあたたかさは穏和だった。
 あの時、役目を終えこちらへと戻る瞬間、『何か』が自身の中から抜け落ちた。
 日常生活に還り穿たれた虚無感は、遣り残したことへの後悔と、逢うことの叶わない遣る瀬無さの所為だと思っていた。それだけではなかった。

 失っていたものが埋められた感覚を、莉哉は切実に感じていた。

 重く閉じられていた少女の目蓋が微かに反応する。腕の中で身じろぎするその動きに、現実に引き戻され、莉哉は少女の名を呼んだ。
 ゆっくりと開かれた瞳は確かに莉哉を捕らえ、柔和に細められた。眠りから醒めたような霞みがかった顔だ。思わず口端が緩む。形のよい愛らしい唇に血の気が戻り、安堵の息をつく。
「莉哉…。戻った、のか…?」
 莉哉の腕に掴まりながら身体を起こす間も、ミウカはじっと莉哉の顔を見ていた。誤魔化しは無しだと言ってるようにも見える。
「…ああ。ちゃんと、ここに」
 自身の胸を指差し、笑みを返した。偽る必要などない。真実だ。
「本当に?本当なんだな?そうか。…そうか。よかった」
 ぎゅっと莉哉の腕を掴み、額を胸にあてた。する筈もない花の香りが、したような気がした。
「うん。大丈夫だ」
 頭をぽんぽんと撫で宥める。ミウカの指先は震えていて、顔は見えなかったけれど、気持ちは真っ直ぐすぎるくらいに流れ込んできた。
「ミウカは?身体の方、」
 宥めつつ、言い掛けで、ガバと顔を上げたミウカに遮られる。
「ルイはっ?ルイは平気!?」
 噛み付くような勢いだった。三人ともが呆気に取られ、遅れてふっと表情を緩める。
「あたしはここだよ。平気みたい」
「ルイ!本当?本当に本当!?」
 必死な形相に対しては失礼な態度なのだが、思わずルイは吹き出していた。ミウカに近づき、手を握る。笑ったことを謝り、表情を引き締めた。
「大丈夫。本当に、大丈夫」
「ありがとう、ルイ。ごめん、ね」
 ルイは大きくかぶりを振った。謝るのは自分の方だと言いたくても、喉が詰まって声にならなかった。
 二人の少女の昂ぶった気持ちが落ち着いた頃合いを見計らって、わざとらしくそうした――平坦な声がした。逸だ。
「見た目、平常に戻ったように見受けられるが、身体の調子はどうなんだ」
「うん、なんともない。ずっとあった倦怠感、なくなってる」
「なら、いい。俺はルイと先に駐車場に行ってるから、ミウカが動けるようになったら来い」
 後半は莉哉に向かって言っていた。ぽむ、と逸の大きな手がミウカの頭に置かれる。
「素路、こいつ頼むな」
 言い残し、すぐさま踵を返す。
 あまりにも鮮やかな去り姿を、ミウカは呆然と見送る。逸の気遣いを判っていなかったのは、ミウカだけだった。
 お節介だな。莉哉は苦笑した。同時に感謝する。
 安堵の波が落ち着くと、別の思考に感応して心音が騒ぎ出した。これだけの近距離では聞こえてしまわないか心配になる。
 小さく、ばれないように深呼吸をして、未だ小首を傾げている少女を呼んだ。
「うん?」
 純真無垢な瞳が見つめてくる。幾度もこの胸を騒がせた双眸。
 頭の後ろに手を添えて、そっと寄せた。ミウカの指先が小さく力を込める。
「ずっと…、ずっと言いたくて」
 思い出す。自分が消えていく時のことを。ラスタールを去っていく瞬間の時を。
 声は音にならず、伝えたかったことが何一つ、伝えられなかった。
「言えないまま戻ってきて、ずっと…悔やんでた」
「莉哉?」
「ミウカは、消えないよな?俺の前から、いなくならないよな?」
 あの時消えたのは、自分だったのに。
「いなくならない。消えないよ」
 ほらね、とでも言うように、ミウカは胸の中に埋もれてくる。しかと抱き締め直し、囁いた。
「俺は…――」
 それは少女の耳にだけ届けられた言葉。
 時を経て、異なる世界を越えて。強い想いが繋いだ“光の橋”の先で。
 やっと言えた。やっと、掴まえた。
 この腕に抱き締めたかった温もり。

 ――やっと想いを、伝えられた。




[短編掲載中]